20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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利口であること、賢明であること。
社会的に頭の良いこと。 優秀であること、明晰であること。 部門的に頭の良いこと。 それらは、必ずしも伴うものでない。 PR
「そういえばさ。鏡って、何で左右だけが逆転するの?」
「鏡が左右逆転してるんじゃなくて、それは勝手に君が無意識に左右を反転してるだけだよ。 鏡は左右反転も上下反転もしてなんかいない、ただそのままを写してるだけ。」 「どういうこと?」 「じゃあ薄い紙にマジックで、左右に丸、中央に×、上に△下に□と描いてみて。」 ┌───┐ │ △ │ │○×○│ │ □ │ └───┘ 「こう?」 「それを横にひっくり返すとどうなる?」 ┌───┐ │ △ │ │○×○│ │ □ │ └───┘ 「おんなじようになるけど?」 「それが、鏡が左右反転してるしてないの話。 鏡でない、自分と向きあう人物がその紙の様に縦軸で回転しているだけ。」 「・・・どういうこと?」 「人が向き合う場合、互いに相手は立てを軸に180度の回転をしている。」 右↓左 右↓左 { これが ] ↓ 右↓左 左↑右 { こうなってるわけ。 ] (縦軸で、横に180度回転) 「・・・なんとなく、 分からない。」 「左右逆転のように反転を行っているのは、鏡でなく君。 例えば向き合う時、縦軸でなく横軸で縦に180度回転をした場合、相手とは上下が異なるよね。」 こんなふうに。 ┌─────┐ │上○ │下│ │下│ ○上│ └─────┘ 「うん、そうだね。」 「じゃあ、この場合手は左右同じ? 互い違い?」 「ええっ?」 「横を変えずに回転させたんだから、左右の手のは同じでしょ。」 「あ、 そう?」 「で、例えばこれが「普通」になった場合、鏡を見ると上下の異なる人物が見えるようになるんだよ。 結局、最初言ったように鏡は全て同じ方向へ光を反射しているだけであって、 左右反転を行っていたのは君の無意識だってこと。分かった?」 「わかんない。」
例えば、筋肉は適度な負荷と栄養、休憩を与えることで、肥大化する。
それは「そのくらいの筋肉が必要だ」と、体が判断した為である。 こうしたことは、何も筋肉ばかりではない。免疫力は多少汚れることでつくように、意識もそうしたものである。 意識へ負荷をかけることによって、より正確に、広範囲へ行き渡らせられるようになる。 例えば、学校教育というのも、そうした側面を有している。 多用な科目を次々と学ばせることによって、意識の訓練を行っていると言ってもいいだろう。 ただし、勿論過度な負荷を与えられると、筋肉であれば断裂、 免疫も悪ければ死亡すらしかねないように、意識への負荷も同様である。 一般的に使われている単語を用いるとすれば「ストレス」が一番分かりやすいだろうか。 ただ強いストレスばかり「ストレス」と呼ばれるが、負荷の全ては「ストレス」と呼べるものである。 例えば大型の動物が筋肉を発達させているのも、「重力」というストレスを受けているからであり、 また大型の動物の皮膚が硬かったり、あるいは毛に覆われていたりするのは 自然の「環境」というストレスを受けているからに他ならない。これらもストレスである。 では意識のストレスとは何か、と言えば意識そのものだろう。 元々、知能は物事を処理する為、即ち外部ストレスを御す為に身についているものであり、 全ての日常動作がストレスとなりえるものだ。と言っても、あくまで意識だけである。 知能は「必要であると判断された動作」の処理を簡易化させる機能を持っている。 いわゆる「慣れ」だ。 例えば「歩く動作を意識しているか」と問えば、ほとんどの人はしていないと答えるだろう。 その歩く動作そのものが意識にストレスをかけているか、と考えたとき 「歩きながら考える」ことが容易である以上、そのストレスは極めて小さいと言える。 そうした「無意識の慣れ」だけで、「意識が発達するかどうか」と言えば極めて難しいだろう。 意識をして行動することで学習し、意識できる範囲は広がりえるのだ、と。 ***** 本題 ■ 絵の為の意識 であるからにして。 単調な、一定な、代わり映えの無い、そんなイメージばかり見ているだけでは、 想像力を膨らませることなど、不可能に近しいことだ。と私は思う。 見描想における「見る」と「想う」の関係である。 そして「計算式を知らずに計算を行うことはできない」ように、 また「計算の練習をしなければ、計算は難しい」ように、 「見る」ことと「描く」ことをしなければ、想いうかべることはあまりにも難しい。
何か一つのことに意識を集中させていると、夢の中でそのことを見たり、
またボーっとしたとき真っ先に思わず思い浮かべるような状態が起きる。 今回、これを「偏重意識」と呼ぶ。 もちろん、ただの推測でしかないが、 「何か特定のことに秀でている人間は、そうした偏重意識がそのことに向いている」 と私は考えている。 私自身、この偏重意識を感じているからだ。有効利用はできていないが。 意識と言うものは、一定方向に向き続けていると、他の事へ意識が向きにくくなり、 向かなくなる分、上手く意識を向け続けることで、より細密な意識を持つことが可能になる、と。 そう考えている。 もちろん、また別の事へ意識を向けていれば、そちらの意識は傾く。 人間の意識は有限で、集中したり、散開したりしてしまうものであり、 上手く集中させるからこそ高度な技術を用いられる意識となりうる、のだと。 無意識の意識すらもないようでは、何もできない、と言うように。 で、その一定方向に向き続けた結果、他への意識を持っているときにすら、 その向けていた方向の意識が入り込んでしまう、という事が起きる。 それがここで言う「偏重意識」である。言い換えるとするなら「癖」だとか、かな。 ある将棋のプロ棋士は、何気ないときに考え事をしてしまう為、 危なくて車の運転も控えている、という話を聞いたことがある。 その人は頭の中に9x9の盤と駒のイメージがあり、 いつでも将棋のことを考えていられるらしい、程に将棋への意識を有しているらしい。 今回の言い方をすれば「極めて強い偏重意識」みたいな感じか。 生活をする、むしろ活動するという行為に、それの意識が入り込んでいるようだ、と。 もちろん、偏重意識と折り合いをつけて、必要な意識を必要なときに引き出せる人もいるだろうから、全員が全員車の運転が苦手だったりするわけじゃあないだろうが。 意識の偏重によって日常生活に支障をきたす、なんてことは例に欠かない。 好ましいことに限らなければ、犯罪も意識の偏重によって起きていると考えられもする。 常識や未来への意識を欠き、現状の感情に縛られる意識の偏重、とでも表現しようか。 一歩間違えれば惨事を引き起こしかねないのが、偏重意識、というものである。 有効利用であれば、好ましいのだが。 *****(※私は無学です。間違ってるかもしれない。) 私は「才能」と言うものを「最初から有している基本の能力」だとしている。 運動能力なら、筋肉が代表的か。 筋肉は生まれたとき既に「筋繊維の本数」が決まっており、自然に増えることは滅多に無いというもので、その量が多いことは「そこにおいて強い力を発揮する為の才能を有している」と言える。 反対にその量が少ないことは、おのずと最大限が低くなることを意味している。 例えば駆引きや複雑な技術を必要としないスポーツ競技において、それでいう「才能」がいかに重要であるかは100メートル走の世界記録などを見れば分かりやすい、か。 そこにおいて「才能」というものが存在するということが分かるとともに、 「優れた才能があってもそれを伸ばし用いる技術は不可欠」であると言うことも、 それらの情報を集めれば分かる。技術を受けられる環境を持つ、運も必要だ。 では、知能というものに才能が存在するのか、と言えば、 脳組織を構成する詳しい情報が遺伝子の中に存在するかどうか、に寄るので、 まだ詳しくは分かっていない、はずであるし、最大限がどこなのかも分かっていない。 環境による刺激を受けやすい以上、比較しようにも、 環境の違いなのか、遺伝の違いなのかの区別が困難である。 一般的に「才能」と呼ばれるものは、英才教育なども含まれてしまっている以上、 どこまでが才能で、どこから知識と経験であるのか、定義することは難しい。 言い方を変えればどこまで「才能」でどこまで「運」なのか、分からないのだ。 意識という私の観念を持って、私の考え方を示すならば、濃さと細かさ、 「認識できる情報の多さ」と「認識の正確さ」などの基礎程度ではないかと思い込んでいる。 あまりに概念的すぎるが、分からないのだから分からない。 ちなみにその概念での「才能がある」のと「利口である」というのはイコールでない。 ちなみに環境を運と称しているのは所詮、運だからである。 才能を考える際、個体としての才能に限定する場合、 環境などの不確定要素は、残念ながら運でしかない。 勿論、知識と行動によって、運を補うことは可能である。 学校などは良い例で、運を補うために存在しているといっても良い。 才能を持つことは、運だが。
覚醒状態であり、かつ正常な意識を有しているにも関わらず、その意識に繊細さがみられないことはある。
今の私の状態では、文字を打つという意識以外、ハッキリとせず様々な意識が混ざり合ってわけの分からない状態になっている。 この状態では何をするにも中途半端になってしまいがちで、上手く集中することすら困難である。 勉強しないとー。 |
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