私は疑心と許容を信仰しています。
疑うことをしなければいけない。また受け入れることをしなければいけない。
そんな風に考えています。
昔、疑うことが大事なんて思って疑心暗鬼に駆られて、その果てにあったのが許容です。
自分の感情を疑い、本当にそう思っていいのかを考えなければ、感情に振り回されるだけ。
相手が嫌なやつだったとしても、それを受け入れてやれるくらいの寛容さを持つべきだ。
争いは、許容しない者、認めない、許さない、受け入れない者がいるからこそ起こります。
そうした者が考え直す為には、何より自身を疑わなければ、変わりようがありません。
もし、普遍的な正義がありうるとするのであれば、それは許すことに他ならない。
絶対に許さない、それが正義であることは絶対にありえない、とすら思います。
許さないことが、悪を定義づけているわけですから。
法律も、犯罪を許さない為にありますが、もう一つ人間を許すためにあります。罪を憎んで人を憎まず、と言いますか。
だからといって、犯罪をしていいわけはありません。ルールを認めないことは駄目です。
もっと言えば、許されないことほど、恐ろしいことはない。まあ最低限、道徳的なもの、倫理的なものは守らなければいけません。
自由を認めるということは、相応の許容を持たなければならない、という事です。制限にも許容は必要ですが。
例えば、ある部屋ではいくら騒いでもいいとすれば、その中にいる場合その騒がしさを許容しなければなりませんし、ある部屋では静かにしなければならないとすれば、その中にる場合静かでいることを許容しなければなりません。
疑心には、疑心へ対する疑心も必要です。
本当にこれであるべきなのか? と疑った時、 本当にこれであるべきなのか、と疑っていいのか? などとちゃんと考える事。規則とかでも、本当にこの規則でいいのか? に本当にこの規則でいいのかと考えていいのか? から本当にこの規則でいいのかと考えていいのかと考えていいのか? などと考え、キチンとした考えを行うこと。
人間は本当に生きていていいのか? と考えた場合、本当にそう考えていいのか? と考え、キチンと両方の考え方を成すこと。
勿論、考えるときも、その考えが飛躍しすぎていないかを疑うこと。疑って疑って疑いぬくこと。
そして、私は人間に対する疑心の先に、許容を見つけました。
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