忍者ブログ
20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
[227] [226] [225] [224] [223] [222] [221] [220] [219] [218] [217]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

何か一つのことに意識を集中させていると、夢の中でそのことを見たり、
またボーっとしたとき真っ先に思わず思い浮かべるような状態が起きる。
今回、これを「偏重意識」と呼ぶ。

もちろん、ただの推測でしかないが、
「何か特定のことに秀でている人間は、そうした偏重意識がそのことに向いている」
と私は考えている。
私自身、この偏重意識を感じているからだ。有効利用はできていないが。

意識と言うものは、一定方向に向き続けていると、他の事へ意識が向きにくくなり、
向かなくなる分、上手く意識を向け続けることで、より細密な意識を持つことが可能になる、と。
そう考えている。
もちろん、また別の事へ意識を向けていれば、そちらの意識は傾く。
人間の意識は有限で、集中したり、散開したりしてしまうものであり、
上手く集中させるからこそ高度な技術を用いられる意識となりうる、のだと。
無意識の意識すらもないようでは、何もできない、と言うように。

で、その一定方向に向き続けた結果、他への意識を持っているときにすら、
その向けていた方向の意識が入り込んでしまう、という事が起きる。
それがここで言う「偏重意識」である。言い換えるとするなら「癖」だとか、かな。

ある将棋のプロ棋士は、何気ないときに考え事をしてしまう為、
危なくて車の運転も控えている、という話を聞いたことがある。
その人は頭の中に9x9の盤と駒のイメージがあり、
いつでも将棋のことを考えていられるらしい、程に将棋への意識を有しているらしい。
今回の言い方をすれば「極めて強い偏重意識」みたいな感じか。
生活をする、むしろ活動するという行為に、それの意識が入り込んでいるようだ、と。

もちろん、偏重意識と折り合いをつけて、必要な意識を必要なときに引き出せる人もいるだろうから、全員が全員車の運転が苦手だったりするわけじゃあないだろうが。
意識の偏重によって日常生活に支障をきたす、なんてことは例に欠かない。
好ましいことに限らなければ、犯罪も意識の偏重によって起きていると考えられもする。
常識や未来への意識を欠き、現状の感情に縛られる意識の偏重、とでも表現しようか。

一歩間違えれば惨事を引き起こしかねないのが、偏重意識、というものである。
有効利用であれば、好ましいのだが。


*****(※私は無学です。間違ってるかもしれない。)

私は「才能」と言うものを「最初から有している基本の能力」だとしている。


運動能力なら、筋肉が代表的か。
筋肉は生まれたとき既に「筋繊維の本数」が決まっており、自然に増えることは滅多に無いというもので、その量が多いことは「そこにおいて強い力を発揮する為の才能を有している」と言える。
反対にその量が少ないことは、おのずと最大限が低くなることを意味している。

例えば駆引きや複雑な技術を必要としないスポーツ競技において、それでいう「才能」がいかに重要であるかは100メートル走の世界記録などを見れば分かりやすい、か。
そこにおいて「才能」というものが存在するということが分かるとともに、
「優れた才能があってもそれを伸ばし用いる技術は不可欠」であると言うことも、
それらの情報を集めれば分かる。技術を受けられる環境を持つ、運も必要だ。


では、知能というものに才能が存在するのか、と言えば、
脳組織を構成する詳しい情報が遺伝子の中に存在するかどうか、に寄るので、
まだ詳しくは分かっていない、はずであるし、最大限がどこなのかも分かっていない。
環境による刺激を受けやすい以上、比較しようにも、
環境の違いなのか、遺伝の違いなのかの区別が困難である。

一般的に「才能」と呼ばれるものは、英才教育なども含まれてしまっている以上、
どこまでが才能で、どこから知識と経験であるのか、定義することは難しい。
言い方を変えればどこまで「才能」でどこまで「運」なのか、分からないのだ。

意識という私の観念を持って、私の考え方を示すならば、濃さと細かさ、
「認識できる情報の多さ」と「認識の正確さ」などの基礎程度ではないかと思い込んでいる。
あまりに概念的すぎるが、分からないのだから分からない。
ちなみにその概念での「才能がある」のと「利口である」というのはイコールでない。


ちなみに環境を運と称しているのは所詮、運だからである。
才能を考える際、個体としての才能に限定する場合、
環境などの不確定要素は、残念ながら運でしかない。

勿論、知識と行動によって、運を補うことは可能である。
学校などは良い例で、運を補うために存在しているといっても良い。
才能を持つことは、運だが。
PR

コメント


コメントフォーム
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード
  Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字


トラックバック
この記事にトラックバックする:


忍者ブログ [PR]
P R
カレンダー
03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
最新コメント
[05/17 菅原Andil]
[05/16 菅原Andil]
[03/20 菅原Andil]
[03/19 菅原Andil]
最新記事
(10/12)
(09/16)
(09/06)
(07/04)
(06/01)
プロフィール
HN:
Andil.dimerk
年齢:
34
性別:
男性
誕生日:
1991/03/02
ブログ内検索
カウンター