*才能 その大部分は意識
人の力を、才能という言葉で表する人がいる。その人は分からないから、才能と言い捨てるのだろう。
自分の力を才能という言葉にされる事を嫌う人もいる。その人は自分の努力を無いもののように言われるのが嫌なのだろう。
才能は存在するだろうが、100から0の才能は極めて少ないだろう。あったとしても、上は100で無いし、下は0で無いだろう、と思う。
例えば、原始的な生活を行っている民族が、ITビジネスで成功するだろうか? と、それは極めて少ないと思うだろう。だが、必要な意識、その為の意思と知識さえ身につけられるなら、0でない。
私は、才能という言葉を意識と言い換えて考えなさい、と説く。才能が無いのは意識が無いだけで、意識が無いのは意思と知識が不足しているに過ぎない、と。
才能という言葉を好きな人には申し訳ないが。
才能は基礎能力でも、意識は意思と知識によって引き出せるものだ。
もし、意識という言葉でパッと思い浮かばないのであれば、向かう時間という言葉に言い換えても伝えたい事は同じだ。才能が無いのは意識が無い、意識が無いというのは向かう時間が無い、足りないという事だと。
天才は、意識が優れているという事、人よりも向かう時間が極めて多いという事、と言いかえて感じ取ってもいい。
努力する才能、という言葉を聞くが、あまりにも馬鹿げている。それは意識、意思や知識がないだけではないだろうか。
才能という言い訳は、可能な全ての意識をやってのけた後、どうしようもないと分かった上で、できる言い訳だ。まして、弱い意思や少ない知識しか無いにもかかわらず、才能と言うのは浅はかでしかない。
意思は自分が作るものであり、知識は自分で得るもの。そして、それらは意識を引き出す方法の一つだ。
私は「できない」を三段階に分ける。物理的に不可能である足りない、知識的に方法が分からない、意識的にやらない。
物理的に不可能とは、物理法則などを超越する事であって、誰かが出来るのであれば可能なことだ。
知識的に分からないとは、方法が存在してもそれを知らずできない状態にある、ということ。
意識的にやらないとは、怠慢ばかりでなく、信条や感情によって、それをしようとしないことである。
才能が無いと言っても、物理的に不可能とでも言うのか? もしそうであるのならば、あなたは物理法則の全てを知り、人間の身体の構造を全て知り、自身を全て知り、物事を全て知り、それでもなお、不可能であると言う、そんな状態なのか?
人間は全知の神でないのだから、全てを知ることは不可能といわれるだろうが、それは物理的に不可能でなく、知る方法を知らないだけではないだろうか。
分からないからといって、方法が存在しないことを証明する為には、全ての可能性を考慮しなければならないという事を知らなければならない。
だから、私は才能という言い訳は、可能な全ての意識をやってのけた後、どうしようもないと分かった上でできる言い訳と言ったのだ。
私の言う意識とは、認識や思考、想像に意思を含めた意識だ。
そうした意識は、意思と知識によって引き出すことができるものと想っている。
一般に言われるような才能のほとんどは、そうした意識という言葉に置き換えて考えられうるだろう。優れた才能など、優れた意識を持っているに過ぎない、と。
もちろん、無意識、も意識の内であるが、「最初から」無意識な優れた意識を持っているとするならば、それは才能と言ってもいいだろう。
向かう時間、という言葉に言い換えて感じとってもいいだろう、といったのは、意識が有限である為だ。
生活、生きるということにおいて重要な活動の為の時間、人々全員が持っているとして、残った時間をどう使っているか。天才と呼ばれるような人々の多くは、人よりも多くその対象へ向かっている時間が多いのではないだろうか、と思うのだ。
それは即ち、使っている意識が多いとも言い換えられうる。時間を使う、という事は意識を使っていることであり、時間を浪費するということは、意識(のできる時間)を浪費しているということだ。
そして、人生をその対象に捧げるような状態は、それに対して時間を惜しみなく使うということであり、意識をその為だけに使っているような状態、と言える、と思う。
では、果たしてそれが才能と言えるのだろうか。そう、いったことは努力と言うものだ。
その努力すらも、才能と言う人間は、あまりに物事を知らないか、才能を広義に考えすぎている、と私は感じる。
そして、才能と言われることを嫌う人間は、その意識、使った時間をとても少ないように思われる事が、少ない時間でやってきたと思われることが、嫌なのではないだろうか。
実際どうだかは、私には分からないが。
そうした考え方を私はしている為、こう言うのだ。
「才能を、意識と言いかえて、そう思いなさい。才能が無いのは、意識が無いだけだと、思いなさい。才能が悪いのは、意識の仕方が悪いと思いなさい。」
「才能はあるものだろうけど、意識ならその為の意識をすることで引き出せる。意識は、意思とその知識によって引き出すことができる。それはその為の意思と知識さえあれば、補う事ができるということだ。」
少なくとも、努力できる才能、集中できる才能が無いなどというのは、努力する意識、集中する意識が無いということであって、絶対的な才能の壁であるはずがない。
とても高い能力を持つ人は、その為の意思と知識を有し、その為の意識を持っているのだと。
もし、今持っている意識が貧相だと感じるのならば、意思を強く持ち、そして知識を得ることをし、そして意識を引き出すことに努めればいい。
そうした事をするための意識、意識の為の意識をすればいい。
覚えておかなければならない。
耳を塞ぎ、目を塞ぎ、口を塞ぎ、鼻を塞ぎ、果たしてそれ以外の何を知れようか。
手を止め、足を止め、体を止め、頭を止め、果たしてそれ以外の何が出来ようか。
何もしようとしないのに、それ以外の何ができるのだろうか、と。
意識がない場合、意識を持つ為には意思と、知識が欲しい。
意思が無ければ意識を持てないし、知識が無ければ意識を持つことすらままならない。
例えば算数の知識が無ければその意識を持つことはあまりに難く、掛け算割り算はままならないだろう。
もちろん、意識する為に必要なのはそのものの知識ばかりではなく、意識する為の知識もある。
例えば「運命は変えられない」と「運命は自分で切り開くもの」とで、どちらが人の心を動かすか。
どちらが正確であるかに関係なく、どちらが人の心を動かすかと考えれば後者だ。
そうした心を動かす為の言葉、意識の為の知識は不可欠とも言える。
人々に支持されるものとは、正確なものでなく、人の心を動かしたものが支持されるのだ。
ちなみに正確さで人の心が動く、というのは科学や数学の学問において実証されている。
その為ならば、嘘も方便になるだろう。だが、事実を無視するなどしてはならない。
そうした心を動かす為の知識もまた、必要となりうることを忘れてはならない。
才能という言葉を好きな人には申し訳ないが。
才能がある、と言われる人々は大抵、意識があるだけだ、意識の仕方が優れているだけだ。
もちろん、その意識も、その意識を引き出すための意識も、人には限界がある。
その限界の高さを才能と呼ぶこともできるが、少なくとも何もせずに分かるほど限界は明確でない。
ダメな場合に必要なのは意識である、優れた意識の仕方である。
その意識すらおぼろげであるにも関わらず、才能という言葉を言い訳に使ってはいけない。
意識もせずに何かできるほど、世界は甘くない。
無意識だけで何かを成功させられるほど、世界は甘くない。
重要なのは、意識を持つ、という事。
*
あとがき
私は成功者でも、それらの実現者、また学者でもなんでもない。
それが本当のことであるかどうか、私は知らない。
私がそう思っているに過ぎない。
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