私は意識という概念を使います。
意識、と言いましても、日常的に使われる意識よりも広義になる意識。
簡単に説明すれば、感覚器官や脳から感じる全ての感覚を示して、私は意識と言います。
もっと簡単に説明すれば「感じている範囲全てが意識」です。また「行動」もそこに含まれます。
私は脳に人間の意識、また無意識の全てが入っているとして、魂という概念を信じてはいません。
脳の細胞その他の配列、動作が人間の感覚の全てである、と。
もし、あなたが文字を読んでいるとするのなら、あなたは文字を読む意識を持っていることになります。
そして、私が今文字を打っている、書いているのは、文章を書く、という意識を持っているからです。
ですが、意識と一言に言っても、その質はピンキリで、向かっている意識が薄いと、心ここにあらず、という感じになったり、集中している場合、意識は集束して目的のものだけを感じます。
また例えば、ブラインドタッチのできる人は大抵、文字を打つという無意識的な動作を、軽い意識で引き出しているに過ぎませんが、キーボードの配置を見ながら次の文字を打つにはどうすればいいのか、という意識をしながら文章を書いていきます。
前者を示して、「キーボードの配置への意識(記憶)があり、見ないでもキーボードで文字を打てる意識(動作)」ができる、という風な使い方をします。
プロフェッショナルと呼ばれるような人々は、意識に優れた人々だと思います。
人よりもはるかに濃く、鋭く、正確に意識をできる人が、天才などとも言われる人だと思っています。
そうした人は何より「意識をするための意識」を行っているのではないだろうか、などとも考えています。
私の例をあげますと、こうして文字を打っている間の意識は、文章を考える事だけに絞られています。
ですが、絵を描く時は、意識が別のものに移ってしまいやすく、頭では別のことを考えながら、絵を描いているなんていうことすらあります。勿論、それで良い絵が描けるはずも無く。
そういった意識のしやすさの差異は才能の一部である、と考えています。
私の場合、文字を打つことに対して無意識にも意識を集中させられる才能を持ち、絵では意識を強く持たなければ意識を集中しきれない程度の才能だけである、などと。
私の言う意識はとても広い範囲の意味を持っていますが、代用できるものを私は知らないので、意識という言葉を使っております。
意識をするための意識、意識を制御する意識を持つことは、より優れた意識をするために大切です。
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