20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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教室に例えると、メモリはホワイトボードや黒板で、HHDはノートなどの記録書類。
机に例えると、机の上がメモリ、引き出しがHHD。 PC動作中の簡単な言い回しをすれば、表示や処理がメモリ、保存や記憶がHHD。 ちなみにCPUって言うのは教室の場合、人数など。 机に例えれば、使っている自分そのもの。 これが悪いといくらメモリがあっても、処理が追いつかない。 いや、分からん。 PR *才能 その大部分は意識 人の力を、才能という言葉で表する人がいる。その人は分からないから、才能と言い捨てるのだろう。 才能は存在するだろうが、100から0の才能は極めて少ないだろう。あったとしても、上は100で無いし、下は0で無いだろう、と思う。 才能は基礎能力でも、意識は意思と知識によって引き出せるものだ。 努力する才能、という言葉を聞くが、あまりにも馬鹿げている。それは意識、意思や知識がないだけではないだろうか。 私は「できない」を三段階に分ける。物理的に不可能である足りない、知識的に方法が分からない、意識的にやらない。 才能が無いと言っても、物理的に不可能とでも言うのか? もしそうであるのならば、あなたは物理法則の全てを知り、人間の身体の構造を全て知り、自身を全て知り、物事を全て知り、それでもなお、不可能であると言う、そんな状態なのか? 私の言う意識とは、認識や思考、想像に意思を含めた意識だ。 向かう時間、という言葉に言い換えて感じとってもいいだろう、といったのは、意識が有限である為だ。 では、果たしてそれが才能と言えるのだろうか。そう、いったことは努力と言うものだ。 そうした考え方を私はしている為、こう言うのだ。 とても高い能力を持つ人は、その為の意思と知識を有し、その為の意識を持っているのだと。 覚えておかなければならない。
例えば「運命は変えられない」と「運命は自分で切り開くもの」とで、どちらが人の心を動かすか。 人々に支持されるものとは、正確なものでなく、人の心を動かしたものが支持されるのだ。
その限界の高さを才能と呼ぶこともできるが、少なくとも何もせずに分かるほど限界は明確でない。 意識もせずに何かできるほど、世界は甘くない。 * あとがき
生物はいつか死ぬ。人間も、いつか死ぬ。
また、道具であっても、やがてその役目を終える。 もし、成し遂げたいことがあるのであれば、それの為だけの意識を持つべきだ。 人間の時間は限られ、死んだあと後悔することはできないだから。 「死を想え。 そして、生きていることを知れ。」 「人間であるならば、心の為に人生を全うせよ。」 * と、自分に言いたいわけだわさ。
「才能を、意識と言いかえて、そう思いなさい。
才能が無いのは、意識が無いだけだと、思いなさい。 才能が悪いのは、意識の仕方が悪いと思いなさい。」 「才能はあるものだろうけど、意識ならその為の意識をすることで引き出せる。 意識は、意思とその知識によって引き出すことができる。 それはその為の意思と知識さえあれば、補う事ができるということだ。」 * 意思と知識で、意識を引き出す。 * 「努力できる才能が無い、集中できる才能が無い。 それは、努力する意識が無い、集中する意識が無いとしか聞こえない。」 「才能が無い? 意識が無い、のか? 意識が無いなら、意識すればいい。 意識の為の意識をすればいい。」 * うん。
見る 行う 考える
目を使う 体を使う 頭を使う。 その三要素はなんにおいても重要だ。 観察やそれによる学習。 練習などを含めた行動。 想像などから思案まで。 結局はその三つで説明できてしまう。 そして、その三つのうちどれも欠いてはいけない。 |
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