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20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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 私は、読んだ物語の数が少ない。
 それは物語を作ろうとする上で、弊害である。

 人は作品などを見ることで、作る為の意識を備えようすることができる。
 観察と学習。まず、見なければ作るための知識は得られない。

 どのようにすればいいのか、作品を見ることで汲み取っていくこと。
 本来、それが出来てから物語を作るべきなんだろう、と思う。

 見ることは、力になりうる。力にできる。
 兎にも角にも、まず見る意識がなければ、何もできない。

   *

 というわけで、「アンデルセン童話集」3冊に「モモ」、「巌窟王」をとりあえず買ってきた。
 本屋の童話などの置いてあるところに並んでいたもので、入門としてはこれくらいが優しいかな、と。

 思えば、私がなぜ物語を創ることができてきたのか、不思議にすら思う。
 読んだ物語の数は人並みか、それ以下。知識の量としてはかなり少ない。
 だから、いまから知識を入れたところで、何も変わらない可能性も、一応ある。

 ただ得た知識を、生かすも殺すも、結局は自分次第だ。
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 天才数学者の話を見て、私の思う[天才論]の確信が深まった。
 と言っても、いくら確信が深まろうが、証明ができるのは学者なわけであって、私ではない。

   *

 最初の記事[一回目なので]でも、軽く触れていた天才の話。
 「人よりもはるかに濃く、鋭く、正確に意識をできる人が、天才などとも言われる人だと思っています。」という文。
 実のところ、絵の講座のあとがきにもっと突っ込んだ天才の定義を書いています。

 「天才は意識を使いすぎ、大体当たり前の意識が、うすくなってしまうのではないだろうか。」という文章が、画像の中に書かれている。
 もっと極端な言い回しをすれば「それだけに意識を向け、それ以外の一切の意識を持たないような状態」で、それに近しい天才は多くいると感じているし、その天才数学者は、その極端すぎる例になる。

 私の天才論と言うのは「他者よりも優れた意識を持ち、特定のものへと向け続けられること」だ。
 「他者よりも長く強く濃く、鋭く正確な意識を持っている人」と言いかえてもいい。
 普通の人は意識が分散し、日常への意識が存在するが、その意識すらも特定の何かへと向けるような人が天才だと。

 天才には変人が多い、と言われるのも結局はそうした状態にあるからではないだろうか。
 残念ながら、人間の意識は有限である。その有限の中、最大限有用に使える人が天才であり、日常への意識すらも削ってしまいかねないのが天才なのだと。
 それが、私の天才の定義だ。

   *

 一緒に見ていた母が、そうした状態にある人はある意味不幸なんじゃないか、ということを言った。
 でも私は、結局それ以外の意識が無い、他に求めているものが無い以上、その人にとってはそれが幸せなんだろうと言った。
 普通の人は他に求めるものがあって、意識が分散して、日常に意識があって。
 結局その人の心の問題。その人の心が満たされるのであれば、いくら貧相な状態であっても幸せなのだと。

 もし10それを求めていて、10それに満たされている状態から、日常という何かのためにその10を無理矢理削っても、拒絶しか生まれない。
 一番満たされているのであれば、それが幸せなはずだと。

 あと、天文学者だとか、海洋学者だとかは知るためになるっていうのは分かるけど、数学者がなぜ数学へとのめりこんだのか、と言う話には、私もよく知っているわけではないが、いわばミステリー小説の謎を解きたい、のと同じようなものじゃないかと例えた。
 結局、知りたいから、という根本は変わりえない、と。

  *

 私の意識の話は、普通の人が考える場合、[意識]を[時間]に置き換えると分かりやすいかもしれない。
 意識と言われてもその際限の感覚が分かる人はそう居ない。
 だが、時間の際限の感覚は社会において不可欠な要素で、分かりやすいと思うのだ。

 天才学者が全ての意識をそれに向けた、という言い回しを、天才学者が全ての時間をそれに向けた、とすれば分かりやすくはなるはずだ。
 しかし、私の伝えたいニュアンスとして、正確とは言い難いが。

 私は主にこうして様々な事を書いていながら、人が見た反応を知らない。
 その為、私は思考の修正を行うにも、一人でやらなければならない。

 だが、通常人間と言うのは、人と接することによって思考の修正を行っている。
 それによって、いわば常識と言われる意識を身に着けていく。

 常識とは、深く考えずともそうであると思えること。
 別な言い方をすれば、常識とは合法化された偏見である。
 その為常識は、接する人や環境によって大きく異なる。
 特に、思考の主義主張が遺伝子へ刻み込まれてるとは思えない。


 私の思考は主に、人と接するという事ではなく、情報と接する事で生まれた。
 また、情報をほぼ一人で処理をしてきて、結果生まれたのが私の思考である。

 だが、思考的に人間として一人でいることは危険だ。
 本来他者と接する事で思考の補正を行い、他者から非常識と呼ばれうるような思考を抑制している。
 人間はその補正が無い場合、どんどんと偏向していってしまいかねない。
 勿論、環境的に思考の多様性がなければ偏向はするが。

 私の場合、疑心暗鬼に近い、その疑いを自身にすら向けた。
 人間が一人である場合、他者を否定し、自己を守ろうとするが、私は自己を否定したのだ。
 つまり、私は他者と行うはずの補正を、自身と、情報によって行ってきたのである。
 また死に向かいかねないものの、私はそこまで強い人間でなかった。


 ただ、一人ひっそりとその思考を修正し続ける。


    *

 許容の重要性を訴えた人々は、過去にも大勢いるだろう。

 私は意識という概念を使います。
 意識、と言いましても、日常的に使われる意識よりも広義になる意識。
 簡単に説明すれば、感覚器官や脳から感じる全ての感覚を示して、私は意識と言います。
 もっと簡単に説明すれば「感じている範囲全てが意識」です。また「行動」もそこに含まれます。

 私は脳に人間の意識、また無意識の全てが入っているとして、魂という概念を信じてはいません。
 脳の細胞その他の配列、動作が人間の感覚の全てである、と。

 もし、あなたが文字を読んでいるとするのなら、あなたは文字を読む意識を持っていることになります。
 そして、私が今文字を打っている、書いているのは、文章を書く、という意識を持っているからです。
 ですが、意識と一言に言っても、その質はピンキリで、向かっている意識が薄いと、心ここにあらず、という感じになったり、集中している場合、意識は集束して目的のものだけを感じます。
 また例えば、ブラインドタッチのできる人は大抵、文字を打つという無意識的な動作を、軽い意識で引き出しているに過ぎませんが、キーボードの配置を見ながら次の文字を打つにはどうすればいいのか、という意識をしながら文章を書いていきます。
 前者を示して、「キーボードの配置への意識(記憶)があり、見ないでもキーボードで文字を打てる意識(動作)」ができる、という風な使い方をします。

 プロフェッショナルと呼ばれるような人々は、意識に優れた人々だと思います。
 人よりもはるかに濃く、鋭く、正確に意識をできる人が、天才などとも言われる人だと思っています。
 そうした人は何より「意識をするための意識」を行っているのではないだろうか、などとも考えています。

 私の例をあげますと、こうして文字を打っている間の意識は、文章を考える事だけに絞られています。
 ですが、絵を描く時は、意識が別のものに移ってしまいやすく、頭では別のことを考えながら、絵を描いているなんていうことすらあります。勿論、それで良い絵が描けるはずも無く。
 そういった意識のしやすさの差異は才能の一部である、と考えています。
 私の場合、文字を打つことに対して無意識にも意識を集中させられる才能を持ち、絵では意識を強く持たなければ意識を集中しきれない程度の才能だけである、などと。

 私の言う意識はとても広い範囲の意味を持っていますが、代用できるものを私は知らないので、意識という言葉を使っております。

 意識をするための意識、意識を制御する意識を持つことは、より優れた意識をするために大切です。



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