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20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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 「感情だけを尊重するのならば、議会などいらない。それこそ投票箱で十分だ。
  民主主義とは、『多数決』と『議論』を扱う方法であり、それは選ぶ為に話し合うことから始まる。」


 思えば、あの党における感情論の多さは、ある意味国民の声である。
 情報も得ず、理性的な思考もせず、考えた国民達の権化があれだ。
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  いわゆる、二次創作。
 主に原作らしさの無い二次創作は、「これでやる必要ないだろ」と言われることがある。

 しかし、「食べたくも無い食材で料理はしないだろ?」 と、言いたくなる。

 特に、好き勝手に作れる趣味の作品であるのならば、使いたいもので作るのが普通だ。
 パンがあり、パンを食べてもよくてパンを食べたいのに、米を食べるような人間はそういない。
 加えてパンに精通していて、料理が上手くとも、米に精通しているわけではないだろう。

 好きなものであれば、その使い方も広がりやすいだろうし、モチベーションを維持し続けやすいのも好きなものである。
 つまり、「必要ない」わけが無い、だろうと言いたいのだ。
 秩序を守るものは、相応の力を有していなければならない。
 その力すらも否定するのであれば、それは秩序の否定にも繋がりうる。

 一辺倒に必要ないなどとのたまうよりも、どの程度必要なのかと議論する方がいいと、私は思うのだが。
 特に秩序無き場所において、秩序を守れ、でも力を持つななどというのは、バカの矛盾だ。

 最小限の力で、秩序を守れる方法を考える方が、まだ現実的である。
 インターネットにおいて、不特定多数の人々の入ることができる、そして自由に出入りできる場所。

 そうした所が、発足してからしばらくすると、自然発生的にこういう人が出てくる。
 「ここはもう終わった。」
 勿論、言葉の種類は多用であるが、そのニュアンスは同じだ。
 別に閉鎖するわけでもなく、終わったと言う。

 そうした人々の心情を、考えるに「価値を見出せなくなった」だけだろう。
 その言葉を頭ごなしに否定するわけではない。
 「価値の見出せない形に変わってしまった」という話もありうる。
 
 だが、その場における責任者でも管理者でもなのに、そういう心情になっても気分が悪いだけだ。
 「あなたが世界を認めなければ、世界はあなたを認めない。」と語るに、認められるものが狭まれば、それだけ楽しめるものも狭まってしまう。
 そして、そうしたネガティブな発言というものは、周りの者を不愉快にする。
 分かりにくいの場所、愚痴を言う為の場所であれば、文句の言いようはないが、みんなが楽しんでいる場所でそうした発言を行うことは、えてして叩かれてしまい、またその人は不愉快になる。故意ならユカイになる。スルーするのが一番だが。

 また、ある時期を全盛期と言って、今は駄目だと論ずることも、そうした事を真剣に考えるような場でもなければ、煙たがられる。時と、場所と、場合をわきまえることは大切だ。
 ある時期を全盛期であると言って、そして今からその全盛期に匹敵するくらい盛り上げてやろう、なんて言う意気込みであれば、まだ違うかもしれない。ただし、駄目だという言葉を使うのは、煙たがられやすい。


 物事を真剣に考えるのであれば、その為の場で、なければその為の場を設け、どこを改善すべきであるのか、どう改善すべきであるのか、と言った事を論じることくらいが、他人を巻き込む中で好ましい手段である。

   *

 以前、「受動と能動」を基準とした感情の責を書いた気がするんだが・・・

 探したら小話のところにあった。
 感情の責: http://niza.nobody.jp/kanjo.html

 見に行く側が見たものを不当と訴えることは、契約でもしていなければ、無意味である って話。
 インターネットにおいては、それこそ騙しリンクなどでなければ、全て見に行く側であって、ただ受け取る側でない。
 それが、自身の管理しているサイトであったりでもないかぎり、だ。

   *

 「あなたが世界を認めなければ、世界はあなたを認めない。
  あなたが世界を許さなければ、世界はあなたを許さない。
  あなたが世界を認めなければ、世界はあなたを許さない。
  あなたが世界を許さなければ、世界はあなたを認めない。

  しかし、あなたが世界を許そうとも、認めようとも、
   世界はあなたを認めてくれる、許してくれるわけではない。
  それすらも、認め許さなければ、あなたは、世界を許せない。」

 世界のありようを、まず許し認めようとしなければ、かの夏目漱石の言葉を借りることとなる。
 兎角にこの世は住みにくい、と。

 物事を嫌悪することは、その対象が嫌悪される状態にあるのではない、自分が嫌悪する状態にあるのだ。
 世界は自分のために、一人のために、その姿を変えてくれるわけでない。

 「世界に嫌悪したならば、変えようと思え。
  間違っても、変わってほしいと願ってはいけない。
  願いは、世界を変えられるほど強いものではない。
  願いによって変えられるものは、せいぜい自らの心だけである。」

    *


 あーもう。二十日病!!!!!!!!
 文字しか、言葉しか頭の中に浮かばんがな。
 人間、誰でも自分が可愛いものです。
 もし戦争であっても、生き残るために戦うことがほとんどだったそうです。
 死ぬまで、死ぬ気で戦える兵士なんて、異常だと言えるほど。
 結局恩賞を貰いたくて戦ってた、と言う話も。恩賞が無ければ、戦なんてできないくらい。

 ですが、そうとは話が違ったという戦争があったそうな。
 代表的なものといえば、宗教戦争。
 「戦って死ねば天国いけるよ?」みたいな感じで、そりゃ一心不乱に戦えるわな、と。
( テロリストもそれと極めて似ているそうで、まあ実際の宗教のあるべき姿からは、かけ離れたものです。)


 そして、アジア・太平洋戦争における日本軍。
 まあ宗教的ではあったものの、話の筋は通っている戦いでした。
 特に、目的としては日本が存在しつづける為、維持する為に戦ったものだそうです。(特に資源が無かった為。)
(+大義名分としては、大東亜共栄圏と言われる、植民地支配から東・東南アジアを解放すること。)

 その代表的な例を挙げるとすれば、神風特攻隊の話。
 それをやらなければならないというような状態であり、それをやってのけた兵士達。
  死よりも、国の灯火が消えることを恐れた、とも。
 他、硫黄島における戦いなどの、負けると分かっていながらそこを驚異的な期間守り続けたこと。
 1日ここを守れば1日、本国にいる人たちが生活を維持できる、という意志だったと言われています。
  まあ、兵士に死を要求したのは上ですが。


 ただ、兵士に死を要求するほどの戦いがあったこと自体、悲惨なことですので、良い話ではありませんが。
 戦争において、死のうと思って死ぬ兵士はそういません。死ぬ覚悟をしても、死にたいとは思いません。

 普通は。

   *

 私の記憶

 極東国際軍事裁判は、法治主義の根本原則に違反していると言われている。
 戦時国際法違反との意見もある無差別爆撃に対し、サンフランシスコ講和条約によって補償請求権を放棄。
 また朝鮮を始め、占領した国などに対しても決められた多額の賠償・補償を完遂する。

 現在においては他国へのODA(政府開発援助)などを行う他、
  復興支援の為の自衛隊海外派遣などを始めとする、平和維持活動にも従事。

   *

 砕いた感じで話をすると、
 「まず元々は無かった規則に、不当とも言える形で罰されている。
  自分を不当に痛めつけてきた相手へは多くを求めなかったが、
   決められたとおり、関わった他の国々へはキチンと払うものは払ってる。
  その上、ちゃんと先進国としてやんなきゃいけないことは、大体やってる。」

 そう記憶してる。


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