20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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「絵も漫画も、銃ではない。ただの本だ。
だから、相応に気をつければいい。」 「銃と呼ぶに相応しいものは、車のようなものだ。 力として便利であり、その力を制御、制限すれば安全。 だが、制限を持たなくなれば、人を殺めうる。」 ゲームもそうだ。ただの情報でしかない。 だが、絵も漫画も、その人にとっての情報がそれだけになれば、それだけを信じざるをえなくなる。 そうなれば、内容が過激である場合、それは危険になってしまう。 しかし、行動を起こす種になってしまう可能性を持っていたとしても、それは本、情報に過ぎない。 それ自体が、人を殺しうるような、凶器ではないのだから。 例えば新聞などで、そうした情報しか出さなかったら、それこそ脅威になる。 が、それだけで人は死なないし、人を殺すのは人であって、その情報ではない。 だから情報として、相応に気をつけなければいけないのだ。 もちろん、人を殺めるなどの話ばかりではなく、犯罪全てに言える話だ。 配慮を行ってもなお、それらが罪となることがあれば、ただの傲慢な妄想の被害だ。 * まあ、学校などの教育機関が無い場所で、そうした情報が投げ込まれれば、それは危険。 何故ならば、それしか情報がないから。持った情報がそれだけになってしまえば、危険だ。 だが、学校などの教育機関などがキチンと行われていれば、学校での情報が入る。 その情報は多種多様であるも、反道徳的なものは僅かなはずだし、規則を守ることも入っているはずだ。 そうした社会的な仕組みがキチンとしていれば、そうした情報があっても、それの責任は僅かなものでしかない。 ただ、だからこそ相応の配慮を行わなければいけない。情報としての責任だ。 * と、創作する人間としては、そのくらいの意識です。 配慮をしていれば、それらが油になったとしても、発火するものじゃない。 燃えたとしても燃えた人の所為。燃える人は勝手に燃えるようなものだし。 創作する人間に、社会が配慮しなかった責任を転嫁されても困る。 * 意識の話かもしれないけど、思想の話。 PR
よく、下手だなあとか言うとじゃあお前やってみろよ、なんていう話を聞きます。
ただ絵とかの場合は、「じゃあお前の良いと思うものってなんだよ」と聞いた方がいいと思うんです。 結局、試しているのは目であって、手じゃないのに手の技術の話をするんだろう、と。
もし、不変的な美がある場合、それは人間そのものたりえない。
人間は変化するものであり、そこには変化の美がありうる。 * 「絵や人形にも、美しい女性がある。 だが、それに恋をする事は、生物として愚かしい。 しかし、その美しさを否定することはかなわない。」
私の好き嫌いの観念は薄い。
あるのは「嫌いではない」と「好きではない」のおおよそ。 正直、嫌いという感覚や、好きという感覚が分からない。 好きである、嫌いである、という感覚が分からない。 だが、好き嫌いを多く持つことはとても生き辛いのだろうと思う。 何かを嫌ったり、あるいは何かの一つを好きになったりして、それ以外を嫌ったり。 正直、嫌うということは争いの種だ。 そうした許容の見かたもある。 * 一般的な人はもしかしたら、好きである、嫌いである、それらを口に発することで、自己暗示に掛かっているのではないだろうかと、思ってしまう。 そして、発された言葉を受け取った他人の反応によって、より暗示が濃くなっているのではないだろうか、と。 つまる所、好きだと思い込んでいるだけではないのだろうか、と。 だが、思い込みというものは武器になるのも分かる。 太古から、人間は思い込みを持って生きてきた。 信仰という思い込みを。 私は自分に思い込んでいないか、と疑心を持っているのだろうか。 疑心が思い込みを阻み、思い込んでしまいにくい状態となっているのだろうか。 よく分からない。 私は疑心と許容を信仰しています。 |
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