20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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(1の続き)
私が正しいと思っているだけだ。誰かが正しいと言ったところで、それはその人が正しいと思いたいのである。私が正しい証拠などない。 例えば前項の話も、私というの視点によるものであって絶対的に正しい根拠はない。しかし、もし人間がスパゲッティーモンスターに作られたとしても私はそれを明確に正しいと知るすべが無いため、前項のような結論に至るのだ。 それは私の視点だけの話ではない。1+1ですら明確な定義がなければ2にならないのだから。 ましてあやふやな心を明確に定義することは無理である。 誰かが善と思ってもそれを別の誰かが悪と思うこともあり、誰かが悪と思ってもそれを別の誰かが善と思うこともあるだろう。こと感情において絶対的な定義などありえない。 感情は常に相対的だ。感情はあくまでその人の経験や遺伝に基づいたものであって、世界や定理に基づいた感情など無い。 善悪の定義は左右の定義と似ている。左右は何かしらの例に頼らなければ定義することができないように、善悪もまた何かしらの例によって定義しようとされるものである。極めて曖昧な表現として言えることは「善は心がそれを推奨しようと思い定義されるもの」で「悪は心がそれを排斥しようと思い定義されるもの」と、そのくらいまでだ。 つまり心という基準がなければそれをしめすことはできず、その心を明確に定義することは不可能であり、そのため善そのもの悪そのものを明確に定義することはできないのである。 ファンタジーにおいては当然のように善悪を扱っているが、それは創造神という作者によって決められたものに過ぎない。社会においても当然のものとして扱われるが、法律に基づかないものはあくまで暗黙の了解によって統一された認識に過ぎず、法律に基づくものもまた心によって定められたことに過ぎない。 ほとんどの人間は自らの感情に対して「制御する」という発想を抱かないだろうが、感情を制御することは古くは宗教的なものによって公然と行われてきていることである。代表例として、神頼みはよく分からない不安の感情を抑制させるために闇雲な思考を丸投げするものであるし、坐禅など心を無にするといったことは自らの意思で感情を制御しようとする行為である。 意識的にしろ意図的にしろ無意識的にしろ、感情を制御することによって人間は感情に振り回されないように生きることができるのだ。もし感情を制御しようとしないのであれば、子供よりも子供のように何から何までわがままな感情をぶつけるというような状態におちいりかねない。それは反社会的な行動に至ることもありうるため、感情を制御することは人間社会における人の責務とすら言えるだろう。 ただ重要なのは責務であることではない。感情を意図的に制御することができるということである。 私は幸福感を幸福だと思うことで感じることができる。もちろん安っぽい幸福感ではあるものの、そう思い込んでしまえばその人にとってそれは事実なのである。 それはあらゆることに言える。不満であろうとも不満ではないと思い込んでしまえば不満ではないのである。嫌悪を感じようとも嫌悪していないと思い込んでしまえば嫌悪ではないのである。幸せであろうとも幸せではないと思い込んでしまえば幸せではないのである。幸せが些細なことにあるという人間はそれを分かっているために、幸せと思うことが幸せにつながるのだと説くのだ。 だから私は言う。無闇な嫌悪は何の利益も生まないし、むしろ精神的苦痛という損失しかなく、可能なかぎり抑制すべきことである。利口な人間は他者のそうした嫌悪の感情を利用して利益を生んだりすることもある。それが良いか悪いかは別であるが。 例えば環境保護を名目としてまるで人間を弾圧するかのような行動をとることが本当に望ましいことなのだろうか。環境保護の根本は人間の環境のためであり、他の生物を守ることはその方が人間にとっても都合が良いのではないかというものでは無いだろうか。地球温暖化の叫ばれる昨今も、温暖化して最も頭を悩ませることになるのは人間であり、その他の生物は自然の摂理に従うに過ぎない。かわいそうなどという感情も、それが本当に良いのかは別である。 ただ全ての人間が現状に満足することはありえないが、そうなってしまうことは文明の進歩を停滞させることに他ならないだろう。そのため何もせずに幸福を得るという行為は、人間社会において善とは言いがたい。だが納得できないことであろうとも、本当に納得しないことがいいことなのだろうか、と。納得しないことによって不要ないらだちを募らせるよりも、納得して不要な不満を持たないことの方がいいのではないだろうか。 また満足の為の目標は明確にするべきである。例えば曖昧に「今よりもずっと良い」などと言っても本当に今よりずっと良くなろうが、その実感は薄くそこからさらに「今よりもずっと良い」ことを目指してしまいかねない。求め続け、その渇望が満たされることのない状態にもなってしまいかねない。 しかし私は現状に満足してしまっている。現状が幸せであると思えてしまう。 もちろん先々を考えれば不安になるが、それも幸せだと思ってしまえるのである。 それが良いかと言えば、そんなことはないのだ。 PR ![]() ![]() |
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