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20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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 といってもGIF動画。5年前からしばらく描いていたもの。
 
 ↑前半 : http://twitvideo.jp/img/display/03iED
 後半途中: http://twitvideo.jp/img/display/03iEG

 絵や流れのつたなさはわかるけど、それよりも目を見張る動き。
 緩急のついた動きではないものの、グリグリと動くそのさま。
  今の僕にはとても真似できない気がする。

 結局物語に収拾がつかず、途中のままだけど。
 今まともに続きを作れる気もしない。

   *

 動画を作るときに大切なのは、動きへの意識。
 また動きのためには手を抜かないことだと思う。
 そのためにも見描想。
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 文字を最初から綺麗に書けるわけがないように
  絵も描いていけばある程度は慣れる。
 ちゃんと意識するというか気をつかうとか、
  そうしないといくら描いても上達しにくいのは文字と一緒。
 明確な基準があり描画量の少ない文字でも
  基本の「見て・描いて」は絵も同じ。

 そこに「想う」を足したのが見描想の考え方。

  *

 想うというのは、まあ大雑把に言えば想像・イメージしたりすること。
 感情としての想うとかも含むまれてるけど。
 「方法×時間=リターン」のまとめ

「力の入れ方を間違えるといくら尽力しても良い結果が得られるのは稀である。力の入れ方が適切であれば軽い力でも間違えた時よりも良くなりえ、そこに尽力してこそ良い結果が生まれうる。」 と自分の経過をみてしみじみ思う。

何が悲しいって昨日時間をかけずに描いた絵が、一昨日や三日前の絵より高得点なのよ。繰り返すと「目的への方法を間違えればいくら尽力しようが効果は薄い」わけで。いやまあ高得点という目的においては、であって正直そこまで高得点は狙ってないけどさ。

「 時間をかければその分のリターンは来る 」という論理は「基本的な消費時間」が極端に短かったりする人(最低限かけるべき時間をかけるように)や適切な方法を行える人に言える事であって、適切な方法を知らない人には「 何が良い方法なのか探ること 」の方が必要。

あと芸術において「これだけ手間をかけたのだから評価されるべき」と言うのは浅ましい。その手間が眼に見えて分かり凄(すさ)まじいと感じさせられるのならば、あとは場所や方法を間違えてなければ勝手に評価されるだろうけど、その手間が見えず凄みも無いものを評価しろなどというのは傲慢。

修練・練習に時間をかけることについての返信 > 分かりやすくいうと「時間=リターン」ではなく「方法×時間=リターン」だという話よん。 例えば何も考えず円だけ描いて絵が上手くなるかといえば、円が上手くなるだけで、絵が上手くなる分は小さいのよ。

「方法×時間=リターン」で重要なのは「 時間=0でリターンは0 」だと言うこと。いくら素晴らしい方法があっても時間を費やさなければリターンも無い。ただ素晴らしい方法なら必要最低限の時間を費やすだけでもリターンが大きい。反対に言えば「 方法=0ではリターンも0 」ということ。


でもこれら全部、自分への言葉です。

ただ誰も最良の方法なんて知らないし、成功の方法なんて決まってない。できることはこれで良いのかと自問しながら果てしなく時間をかけることくらいなのかしらー。

自問 → 確認  自問ばっかりしてるから間違えたのかしらー。
まとめ
 私の提唱している「見描想」は、絵の上達のために必要なものを三文字で表している。特に「見る」「描く」はいくらでも言われることだけど、「想う」のイメージや思慮は目に見えないから忘れられやすい。
 それに私の才能論を加えると「才能は意識、もしくは費やした時間」であり、才能が無いのは意識が無いということ、才能が無いのは時間をかけていないということ。 それらをあわせると、四六時中「見描想」を行っていればいくらか上手くなる、ということになる。
 見描想における「見る」は、何も描画対象や描いているキャンバスだけではなく、人の作品や制作過程から、何気ない風景や日常の光景、必要であれば技法書なども含まれる。ようは、「絵の為に見ること」が「見る」なのである。
 見描想の「描く」は、落書きや練習から作品の制作全てに至る。思い通りの線や思い通りの色を描けずに思い通りの絵が描けるか、そのためには毎日のように描画を繰り返し、ペンや筆を自らの一部のように使えるようになることだ。ただし、「見る」こと「想う」ことが欠ければ「描く」ことは鈍る。
 見描想の「想う」は、例えば「何が好きなのか」「何を良いと感じるのか」「何を描くのか」「どのように描くのか」といった思慮から構図や描画の想像なども含まれる、頭を使うこと全般だ。「常に絵を想う」などもそうだが、 本当に上手い人たちはそれらを意識せず無意識にできていることが多い。
 これらにおいて重大なのは見描想の三つ、どれをおろそかにしてもいけないと言うこと。見ることが欠ければ私のようにミスや間違いにも気づけないし、描くことが欠ければ私のように思ったとおりに描けないし長く細かくも描き続けられないし、想うことが欠ければ私のように絵に対して不誠実なままになる。
 あと見描想は描画に関わる「知覚」「運動」「思考」全てをさしているため、何かしら足りたにものも大抵見描想の不足で片付けられる。ただ何がどう足りたないのか、どのようにして補うのかの細かい所まで面倒見てくれないけど。 不誠実な心ですがどうすればいいですか? 想うことが足りないとか。

 世に出る作品は、それを制作した時間よりもそのために費やした時間の方が多い。

 見描想の本質は絵に限った話ではない。「観察」「行動」「思考」の三原則はあらゆる分野に当てはまる。
 技法書はものにも寄るが見描想においてかなり役に立つ。
 大抵それらは「見る」と「描く」を行わせることを前提とし、
  ものによっては「想う」ということも促してくれる。


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