20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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あらすじ
少女は魔法の使者と契約しひとつだけ願いを叶える代わりに魔法少女となって絶望を撒き散らす魔女と戦うことになる。 少女たちは何を想い何を願うのか? 魔法少女となった少女たちの運命は? 絶望を撒き散らす魔女とは? オリジナルのシナリオで描かれる大人向け魔法少女アニメ どこにでもいる普通の中学2年生の鹿目まどかを中心に、まどかの親友の美樹さやか、先輩で現役魔法少女の巴マミ、謎の転校生暁美ほむら、マミの縄張りを狙う佐倉杏子と、魔法の使者キュゥべえによって紡がれる望みと願いの物語。 * どうなるか展開がわからないことが魅力のオリジナル作品なので、なんの前情報もなく、全部見てしまうのが一番いい見かたかと。 PR * 「できる、できないじゃない。やりたいか、やりたくないかだ。」 ってわけで特に強くやりたいと思ったわけでもなく、 ただただ「昨日描いていたから今日も描いている」を続けて一年。 今日も描くかもしれない。
東方Project、風見幽香の性格について考察したツイートのまとめ
二次創作で「サディスティック」なキャラを演じさせられやすいものの。 * 幽香は閻魔に(弾幕ごっこの前口上とはいえ)「誰が一番強いか」という喧嘩を「白黒つける」なんてふっかけるくらいの自信があり、鈴仙曰く「波長が桁違いに長い(=花に近しい&桁違いにのんき)」という性格でも(閻魔への前口上で)虐めるのも日課などというくらい落ち着きと加虐性が共存している。 その上プリズムリバーには「フラワーロック(音に合わせて動くオモチャ)」を合いそうな花に上げたり、ミスティアには「トンボ花火(回転しながら飛ぶ花火)」を合いそうな花に上げたり、挙句てゐに「花見酒」を合いそうな花に、果ては小町に「火事と喧嘩」を合いそうな花に上げてる始末。花・・・・? 異常なくらいのんびりしてる上、不愉快になったり興味を持ったり必要だと思わない限り戦うのも避けているという印象。 こう言っちゃなんだけど「生き疲れた妖怪の生き方」に見える。自分の好きなものだけを愛でてそれ以外は何の興味もなく、邪魔なものを除ける程度みたいな最低限の生き方。 花映塚作中の戦闘も映姫様には「少しおかしくなっているのかもしれない」と言われてたくらいだし、幽香自身花と関係性の深い(とされた)妖怪であるというのも考えると、自分から(?)大した理由もなく攻撃してたのは異変にあてられていたからではないかという可能性もありうる。 とはいえ、求聞史紀には人の精神を逆撫でるのが大好きであるとも書かれているので嗜虐性はあるだろうけど、自分から襲うことは少なくなったとも書かれてる。ただ異変直後の資料なので本来と異なる可能性もあるし、自分からというのも「自分から襲っているように見えた」だけという可能性も考えられる。 また人の精神を逆撫でるという表現は単に攻撃を行うより、(ややキツい)イタズラをしたり、いわゆる口撃のほうがそれらしい。 実際幽香は、てゐや文(嘘に関わりの深い二人)に嘘をついてその場で明かしていたり、白黒つける側の人へ白黒つけると言ったりなど、精神的な口撃が得意そうである。 でまあ、私が攻撃的な幽香を描くことが少ないのもそういう印象だからかもしれない。別に攻撃的な幽香が嫌いってわけじゃないし、どんな幽香であっても余程でない限り気にしないけどね。 それに行動的でないキャラよりも、行動的なキャラの方が便利だし。 * 別に私は幽香が特別好きなわけじゃない。
月夜の月よ 美しき姿もまた変わることなく美しく
闇夜の闇よ 醜き姿もまた変わることなく美しい 雨夜の雨よ 落ちる姿もまた変わることなく光り 風夜の風や 曇る姿もまた変わることなく光る その世の夜よ 変わることなく花を咲かせよ
(3の続き)
私は疑心と許容を信仰している。加えるとするならば覚悟もあるべきだが。 疑心は物事を冷静に判断するために、許容は世界のあるがままを受け入れるために。そして覚悟は人間としてあるために。それぞれを信仰している。そのため私は神を信じられず、まっとうに生きるための装置であると語ったのだ。 だが私は神を必要とするような人間である。 まず私にとっての神のことを書き記す。 これだけ多くの宗教が存在する世界が未だに存在するのに人間の知る神による世界の終焉は訪れないのはなぜか。神がいたとしても人間を特別視するような絶大なる力を持った神はおらず、いるたとしても傍観するだけの神や何の特別な力も持たない神だけだろう。もし神の所業のような奇跡があったとしても、それは偶然の重なった奇跡でしかない。 神が信じられているのは、分からないことなどをそれっぽく見せることによって心の安定をもたらし、心を制御しよりよい社会を形成させるためである。現人神として人を安心される人間もいるが、それは安心や満足などを与える代わりに富や名誉を貰いうけている者である。 昔から残っている宗教などであれば文化として重大なものもあるだろうが、結局そうした宗教も神聖っぽく思い込ませる装置に過ぎないのである。しかしそうしたものによる安心などを必要とするものもいるため、そのような役割を持ったものが無くなることはこれからもありえないだろう。 私はそう思うのである。簡潔に言えば心の支えであってそれ以上のなにものでもないのだ。 それら自体は誰かに教えられたわけではない。と言っても0からそう考えたわけでもない。先人たちの言葉を見て思い至ったことである。 しかし私はそうした哲学、宗教学といったことを勉強したことは無いに等しい。先人たちの言葉を見たのも文字通り言葉だけを見たのであり、その背景などは一切知らないように、私は基本的にそうしたことを学んでいない。だから「無学」なのだ。 私をそこからこの考えに導いたのは私の疑心であり、その疑心の果てに許容や覚悟が必要であると至った。私は人間であり人間でしかなく、世界を覆すことなどできないのだから、その世界を受け入れなければ苦しいだけである。 だが受け入れるだけではなにも起こることもなく、ただ流されるだけの人形に過ぎない、心を蔑ろにした状態だ。 疑心はあくまでも疑いであり単純な否定ではない。あくまでそれがどのようなものであるのかと考えるための疑心である。 とは言うものの私はそれらしい考え方を見つけようとするだけであり、事実がどうであるかは証拠を持って証明しなければならないし、私にそれはできない。あくまでも考えるだけだ。 またそれに加えてそのあり方に疑問や不満などを感じようとも、それを変えようとするべきであるかも別であり、どうにもならないと思うことは許容するのである。 ただあまり褒められたものではないし、そんな私は極めて心の弱い人間である。何をするにしても怖くてまともに動くことすらできない。だから覚悟を必要だと言うのだ。 私は神などに頼って心を安定させて生活するような人間である。だが私は疑心にとらわれて、神を信じることのできない考えを持ってしまった。 と言っても思い込むことはできるため全くそれらに頼ることのできないわけではないとは思うが、強く頼ることはできないだろう。思い込みは無用な感情を招くが、思い込みがあるからこそ無用な思慮を抑制できる場合も多く、何事も節度と使いようである。 私は人を動かすことが苦手であり、社会的な弱者だ。それでも私が生きていられるのは幸運に他ならないだろう。死を考えることはいくらでもあったが、私の力で生きたことは一度としてない。 全ての感情の大元はその感情の持ち主本人だが、世界におけるあらゆる現象は自分以外のものによって成り立っている。この体ですら世界からの借り物に過ぎないし、身の回りのものもまた与えられたものに過ぎない。その姿は望もうとも望むまいとも、他者によって形作られているのだ。 分かりやすくいえば悪いと思うことは自分のせいで、良いことは人のお陰という考え方でもある。それが正確であるかは別として、その方がより謙虚に世界や社会と向きあうことができるだろうし、その方が闇雲な感情に振り回されにくくなるだろうと思うのだが、その私は恐怖という感情に振り回されている。 結局、私は何もできない。 そして私は何もされたくない。 |
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