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20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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 というわけで、一日一章ずつ投稿してました。序から番外まで計11章。
 本文自体は書きためてありましたが、一日一章ずつ。
 後で小話のページにも写すつもりです。

 ふとこうしたことを考えながら私を見つめていると、私は自分を不当に評価しているのではないか? という疑念が浮かんできます。そうした評価によって自分自身を苦しめているのではないか? という疑問。
 人間、自分自身に納得できないと自棄になったりします。それに近しいのかもしれないと自分を分析する今日この頃です。
 能力をより発揮するためには、「自分が」とか「自分で」というような意地も大切ですし、あとは何かしらの安心も必要でしょうし、うーん。

 ま、私はこれからもこんな感じだと思いますがね。
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(4の続き)
 私が死を考えた回数は数えきれない。しかし死を実行に移そうとしたことは無い。死んだとしても納得できないし、人も納得できないだろうし、何より死が怖いのだ。
 しかし私が死ぬべきあると思うのは感情によるものではない。ここ一年そこらのことではあるが、私はいるべき人間ではないと理性的に思うのである。生きいたとしても何もできず他者を圧迫するだけに過ぎないのではないか、と考えるのだ。
 だが私はそれを否定できるほど強い人間ではない。

 神を信じない私は死後の世界なども信じていない。死を甘いものとは思えない。死はただ地へ還るだけにすぎないのだと。
 ただただ死ぬのが嫌だ。私はこの世界にいたいのである。それこそ肉体など必要でないし精神も重要ではない。ただこの世界を見ていたいのである。だがそんな方法などこの世界に無い。だからのうのうと生きているのだ。何もせずだらだらと。そんな人間なのだ、私は。
 なぜ私の事を話したかといえば、私がその程度の人間なのだと改めて私の言葉を考えなおしてほしいからである。
 私は中学にはまともに通っておらず高校へもいっていない。ただ学校は可能なかぎり行くべき場所だとも思っている。例えば私がこうした文章を書くことができるのはあくまで私が偶然そのような人間に育ったからである。
 学校に行かなかったことによって得られなかったものは大きく、得たものは極めて少ない。利口な人間であればその有用性を理解し、それを得ようとするだろう。

 所詮、ただ文章を書くだけであればほとんど誰でもできるようなことである。私の至った現実的なまでの現実主義も先人が既に通った道だと信じているし、私にしかできないことなどなく誰にもできないことは私にもできない。
 虚無主義はニーチェなどから教わることができるし、心のためなどというのはそういった本などから教わることもできよう。
 それゆえ私がいなくなったところで社会における損失とはなりえないどころか、私がいることによる損失の方が大きいとすら考えるのだ。私はいるべきではないと考えてしまうのだ。
 もちろん私も感情を持った人間であり、その考えは私の心を苦しめるものである。だが、それもまた私の幸せだ。あらゆる苦痛は必要なのである。しかし私は考えることしかできないのだ。

 私は何の力も持たない20歳前にしてまるで死んでいるような若造である。20年という歳月は私に苦しみを与え、私はその苦しみすら幸福だと感じるまでに至った。
 自分は何もすることはなく、ただただ現実的なまでの現実主義の思慮を巡らせる。私はなにもしないのに、その口をつむぐことなく、ただただ言葉をつむいでいく。
 その心は誰にも信じられることも頼られることもないと思うのだ。もちろん実際はどうであるかなど私の知るよしもない。
 ただ、ふと思うのである。一個人として私を見たとき、ちょっと凄いのではないだろうか、などと。だがそれでも私は死ぬべきだ。

 15歳になる直前、人生について拙い思考を巡らせ文章を書いていたほど、私は昔から考え文章を書くことが好きだ。こうして文章を書くことが楽しくて仕方がない。
 それは私の言う天賦の才に少し当てはまる。その私の言う天賦の才とは、それに対して四六時中それをし続けようと思え、四六時中思慮を巡らせ続けられ、飲食睡眠などを忘れるほどに熱中できるほどの恒久的な強い意識である。単純に言えば人生にそれを捧げられる意識だ。
 もちろんただ才があったとしてもそれを育てようとしなければ何の変哲もない石ころにすぎない。私はただの石ころにすぎない。私は文章を書くことが嫌になることもあるからだ。
 そして少なくとも一朝一夕ではなく、10年近くこうしたことを考え続けてきた。それでもこの程度なのだ。

 私は私を制御することもままならない。制御しなけれなならないと思っていながら、考えながら何もできない。私は動かない。動きたくないのである。わがままなのである。
 私にできることといえばこの積み重ねてきた考えを、こうして記す程度である。主に自分のためではあるが、何かしら人の役に立つのならばそれはこの上なく嬉しい。役に立たないかどうかも私には分からないが。

 だが私は死んでいるも同然である。
 生きてすらいない。
(2の続き)
 私は感情を可能なかぎり抑えた思考を行うことができる。そう思っているだけだが。
 例えば感情の原因は全てその感情を持った人の中にある。いかに他者へ嫌悪をもよおそうともそれはあくまでも勝手に嫌悪をもよおしただけであり、あくまでも感情の原因は自身がそう思ったからにすぎないということだ。

 感情は制御することができる。その感情の管理者は本人に他ならない。管理もしていない獰猛な獣の苦情を他者に当てるなど非論理的ではないだろうか。
 感情は保護されるべきものであるが、絶対の法とはなりえない。もし感情が絶対の法となってしまったのなら世界は阿鼻叫喚の地獄絵図の様相を呈するだろう。社会には罪に対して罰を与える仕組みはあり、その根本は感情によるものかもしれないが、その運営の大部分は感情によって成り立っているものではない。
 もちろん、最低限は保護されるべきであるとも思うが、それらは社会の裁量に任せられている。つまり人を動かす人間がそうしたものを決めるのだ。

 人間社会を支配するのは人を動かせる人間である。権力や財力などといったものばかりではなく、説得力、求心力もまた人を動かす。こと現代においては民主主義という人の心を動かせるものこそが正義という仕組みを用いている国家も多い。ただしそうした民主主義による政治であっても国民が納得できる政治とは限らない。
 民主政において言えば、本当に民主的な政治のためには国民の多くがより政治に対して議論を交わせるような必要がある。そうでなければ国民は政治家や報道の言動によって制御された票の塊でしかなく、そこにあるのは民主主義という名を掲げた多数派主義ではないだろうか。
 民主的な統制における最大の要素とは集団における全員の意思を合わせて考えるというものであり、つまり話し合いや議論によってするべき事を決定するという手法である。しかし現実的に全員が全員話しあうことは不可能であり、またそうであっても極少数の意見が日の目をみることは滅多にない。ほとんどの民主制においては多数決によって代表者をたてることによって議論を行う者を選ばせ、その議員達によって議会を形成し多数決によって国政を行う代議制の民主政が一般的である。
 そうした民主政における多数決とはあくまでも折り合いをつけるためのものであり、本来であれば最大限議論を尽くして決定することが望ましいのではないだろうか。そう思うため議論や思慮の伴わない多数決による政治を多数派主義と呼んだのである。ただし、私はそうしたものの解決方法などを知らないが、教育を調整する必要があるとは思う。
 国民が納得できるのであれば民主政である必要性は無く、納得させるために民主政を用いているに過ぎない。納得できるとも限らないが、選択肢を与えているという言い訳があり言い逃れはできてしまうのである。
 もし納得できないのであれば、何かしらの手段を講じればいい。人間社会なのだから、人を動かし人を集め、より多くの人間を動かしてしまえばいい。それが人間なのだから。あるいは諦めてもいいだろう。

 人によっては他者を満足させることによって自らもまた満足するということもある。そのように人助けなどを生きがいとしている人もいるのだが、それを装って商売をしている人もいるだろう。例えば動物保護といったものもまた現実的な方法を考慮する団体もあれば、感情を武器に非論理的な言動を振り回す団体もあり、それらは一概に何が何々などと言うことはできない。
 本当に多くの人間を救った人もいれば、金を集めているだけの人間もいる。しかし人間はそうして社会を形成し、たくましく生きているのだ。特に利口な人間は理不尽すらも利用し、自身の感情すら利用するだろう。

 改めて言うが、感情は制御することができる。そして感情の管理者はその本人に他ならない。より良く生きたいのであれば感情をうまくコントロールし、不要な心労をしないよう心がけるほうが望ましいだろう。
 どうしてもどうにかしたいのであれば社会の仕組みを知り、どのようにすればいいのか考え実行すればいい。それすらしようとしないのであれば、子供のようなわがままでしかない。何かを欲するのであればその為の行動を思慮し行動しなければ得られると思うべきではないのだから。
 もし感情を制御しようともせず、子供よりも子供のように何から何までわがままな感情をぶつけるというのであれば、そんな人間なんてほとんどの人は納得したくないだろうし他者から批難されて然るべき言動であると言うだろう。

 例えばお金が欲しいのならばお金について考える必要がある。働いて入ってくるお金はたかが知れており、働くことしか考えないのであれば、お金は相応にも得られないこともありうる。
 自分で考えられないのであれば人に聞いたり調べるという方法もある。
 何もしないわがままなど子供以下だ。
(1の続き)
 私が正しいと思っているだけだ。誰かが正しいと言ったところで、それはその人が正しいと思いたいのである。私が正しい証拠などない。
 例えば前項の話も、私というの視点によるものであって絶対的に正しい根拠はない。しかし、もし人間がスパゲッティーモンスターに作られたとしても私はそれを明確に正しいと知るすべが無いため、前項のような結論に至るのだ。
 それは私の視点だけの話ではない。1+1ですら明確な定義がなければ2にならないのだから。

 ましてあやふやな心を明確に定義することは無理である。
 誰かが善と思ってもそれを別の誰かが悪と思うこともあり、誰かが悪と思ってもそれを別の誰かが善と思うこともあるだろう。こと感情において絶対的な定義などありえない。
 感情は常に相対的だ。感情はあくまでその人の経験や遺伝に基づいたものであって、世界や定理に基づいた感情など無い。

 善悪の定義は左右の定義と似ている。左右は何かしらの例に頼らなければ定義することができないように、善悪もまた何かしらの例によって定義しようとされるものである。極めて曖昧な表現として言えることは「善は心がそれを推奨しようと思い定義されるもの」で「悪は心がそれを排斥しようと思い定義されるもの」と、そのくらいまでだ。
 つまり心という基準がなければそれをしめすことはできず、その心を明確に定義することは不可能であり、そのため善そのもの悪そのものを明確に定義することはできないのである。
 ファンタジーにおいては当然のように善悪を扱っているが、それは創造神という作者によって決められたものに過ぎない。社会においても当然のものとして扱われるが、法律に基づかないものはあくまで暗黙の了解によって統一された認識に過ぎず、法律に基づくものもまた心によって定められたことに過ぎない。

 ほとんどの人間は自らの感情に対して「制御する」という発想を抱かないだろうが、感情を制御することは古くは宗教的なものによって公然と行われてきていることである。代表例として、神頼みはよく分からない不安の感情を抑制させるために闇雲な思考を丸投げするものであるし、坐禅など心を無にするといったことは自らの意思で感情を制御しようとする行為である。
 意識的にしろ意図的にしろ無意識的にしろ、感情を制御することによって人間は感情に振り回されないように生きることができるのだ。もし感情を制御しようとしないのであれば、子供よりも子供のように何から何までわがままな感情をぶつけるというような状態におちいりかねない。それは反社会的な行動に至ることもありうるため、感情を制御することは人間社会における人の責務とすら言えるだろう。
 ただ重要なのは責務であることではない。感情を意図的に制御することができるということである。

 私は幸福感を幸福だと思うことで感じることができる。もちろん安っぽい幸福感ではあるものの、そう思い込んでしまえばその人にとってそれは事実なのである。
 それはあらゆることに言える。不満であろうとも不満ではないと思い込んでしまえば不満ではないのである。嫌悪を感じようとも嫌悪していないと思い込んでしまえば嫌悪ではないのである。幸せであろうとも幸せではないと思い込んでしまえば幸せではないのである。幸せが些細なことにあるという人間はそれを分かっているために、幸せと思うことが幸せにつながるのだと説くのだ。
 だから私は言う。無闇な嫌悪は何の利益も生まないし、むしろ精神的苦痛という損失しかなく、可能なかぎり抑制すべきことである。利口な人間は他者のそうした嫌悪の感情を利用して利益を生んだりすることもある。それが良いか悪いかは別であるが。

 例えば環境保護を名目としてまるで人間を弾圧するかのような行動をとることが本当に望ましいことなのだろうか。環境保護の根本は人間の環境のためであり、他の生物を守ることはその方が人間にとっても都合が良いのではないかというものでは無いだろうか。地球温暖化の叫ばれる昨今も、温暖化して最も頭を悩ませることになるのは人間であり、その他の生物は自然の摂理に従うに過ぎない。かわいそうなどという感情も、それが本当に良いのかは別である。
 ただ全ての人間が現状に満足することはありえないが、そうなってしまうことは文明の進歩を停滞させることに他ならないだろう。そのため何もせずに幸福を得るという行為は、人間社会において善とは言いがたい。だが納得できないことであろうとも、本当に納得しないことがいいことなのだろうか、と。納得しないことによって不要ないらだちを募らせるよりも、納得して不要な不満を持たないことの方がいいのではないだろうか。

 また満足の為の目標は明確にするべきである。例えば曖昧に「今よりもずっと良い」などと言っても本当に今よりずっと良くなろうが、その実感は薄くそこからさらに「今よりもずっと良い」ことを目指してしまいかねない。求め続け、その渇望が満たされることのない状態にもなってしまいかねない。

 しかし私は現状に満足してしまっている。現状が幸せであると思えてしまう。
 もちろん先々を考えれば不安になるが、それも幸せだと思ってしまえるのである。
 それが良いかと言えば、そんなことはないのだ。
(序の続き)
 私は人間がこうであるべきだという哲学を持たない。それは私が成功者でなく失敗した人間とも言うべき者であり、私が考えたものが良い状態をもたらすとは限らないと考えるからだ。
 だが、修正すべき場所は修正すべき場所として感じることくらいはある。私も感情をもった人間だ。

 私は17歳になったとき、「自心教」という経典を公開している。見た人間はまずいないと思うが。
 そこには17歳になる少年がより良く生きるためにするべきという言葉が21個連ねられている。その自心教も人間のあるべき姿は言及してはおらず、修正すべき場所は何かと考えるための言葉に過ぎない。
 しかし、そこで「人間の原理」はなんであるのかを言及している。
 「人間にとっては、心が全て。自分の心、人の心、心が全てだ。」という言葉は、今現在も変わらずに思う私の哲学だ。この心が全てというものをもっと砕いて言えば、「人生は納得するためにある」という言葉になる。

 全ての人間は自らの心に従って生きている。それは自らの心を納得させるために生きているが、その方法や試みは人によって異なる。それが人間の原理である。
 もしそれを納得できないとしてもそれは納得したくないだけであるという、覆しようのない論理だ。心の数だけ納得の形があり、あるべき姿と呼ばれるものもまた数多に存在する。
 しかしながら、そうしたことを哲学者は認めようとはしないだろう。そんな論理で納得できる人間は少ないからだ。私は哲学者を真理を探求するものではなく、いかに納得するか、納得させるかという人間であると考えている。自分すら納得できない論理などゴミ同然なのだ。答えを求める者であっても、納得できない答えであるならクズのように捨ててしまうのだ。
 だがそれらの行動の理由すらも言い表せてしまうのが「納得するために生きている。」という魔法の言葉である。人間の行動は全てそれで言い表せてしまえる。まるで自分の首を絞めるような行動ですら、その心が納得しようとした行動だと言えるのだ。

 代表例として上げられるものが、宗教。
 あれは「納得するために都合のよい考え方」を植えつけるための装置である。それっぽく装い、それっぽく思わせ、それっぽく納得させてしまおうというもの。それで戦争すら起きるのだから、人間の思い込むという能力は末恐ろしいものだ。
 だが、現代においてより多くの人間が納得するためには宗教が必要である。
 例えば葬儀はよりよく葬るという名目で儀式を行うが、本当に葬る者へ効果があるのかといったものは疑わしいも、生きている人間にとって葬儀は死者との離別を明確にしてくれるし、墓も死者へ告げるための場所として存在してくれる。
 誰かも言っていた。そうしたものは死者のためにあるのではなく、生きている人間のためにあるのだ、と。
 より良く生きるためであれば神や仏もあっていいのだ。だが、そうでない神は必要なのだろうかと思うのである。多くの他者は納得できないのではないだろうか、と。

 また宗教の話でもあるが、幸福は幸福と思うことによって幸福であると感じるのである。不幸と思うからこそ不幸と感じるのであり、むしろ不幸と思うことこそ不幸なのであると。
 ただ宗教においては何かしらの儀式や形式によって幸福や納得などをもたらすが、その儀式や形式を遂行できない場合に不幸や不満を感じる原因になる。しかしそれは宗教に限った話ではなく、宗教はそうした儀式や形式を明確にしているためそれが無いより分かりやすく、むしろそれがない場合どうすれば満足できるのかという悩みを抱えることになってしまいかねない。
 そうした人間は、どう生きればいいかなど勝手に決めればいいことを他者に求めるのである。時には従順に従ってしまい、時には傲慢に反発する。そうした人間のためには哲学や宗教も必要なのである。

 しかし、まっとうに生きられるのならば宗教も哲学も不要である。まっとうに生きられない人間のために、それらは存在するのだから。


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