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20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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 私の話に説得力を感じ無くともそれは当然のことである。なぜならば私は他者を説得することがないため、そのための意識を持たない。
 説得の意識、という言葉に対して疑問を持つ人もいるかもしれない。

 まず私は人間がもつ認識や意思などをひっくるめて「意識」と呼び、○○の意識といった使い方をする。例えば文章を書く意識と言えば、内容を考えることや文章にすること、言葉や文字を選ぶことなど複数の内容が含まれており、無意識的な、潜在意識的なことまでもその「意識」に含まれている。
 他の例を上げれば、計算の意識が薄い人は計算を行うための認識などが足りず、計算を不得意としているという表現だ。私は文章を書く意識を有しているためにこうした文章を書くことに苦難を感じないが、それは私がある程度文章を読んだり文章を書いたりすることがあるからこそ、そうした意識を有しているのである。(ただし、私は読書などをあまりしないため読んだ文章の量は多くないが。)
 反対に私は人と接することが極めて少ないため、人と円滑に接する意識に欠けている。濃い意識はあくまで経験によって持ちえるものであり、なんでも最初から存在するようなものではないことをここに書いておく。
 また意識にも良い意識の仕方、悪い意識の仕方がある。いわゆる天才と呼ばれるような人間は大抵とても良い意識の仕方が出来ているだろうし、いわゆるバカと呼ばれるような人間は悪い意識の仕方しかできていないのだろう。もちろん、あらゆる分野において優秀であるためには根本的に優秀な潜在意識を含めた意識を持っていなければ困難だが、一分野においてとても優秀な意識を持っていながらその他ではあまりよくない意識しか持てない人というのもありえる。
 人の認識が有限であるように、意識もまた有限なのだから、そうしたことは当然と言える。だが意識の使い方は他者の影響や知識と意思によっていくらでも変えられるため、意識が無いといえども、一切の才能がないというような断定はできない。

 さて、説得の意識についてだが、説得という行為について説明することになる。
 説得とは主に相手へ物事を説(と)き納得してもらうこと、理解してもらうことなどだが、何も特別なことではない。人間社会においては極めて重要な役割を果たしており、ごく当たり前に必要とされるものである。
 例えば体調が悪い時にただ「体調が悪い」と文字を並べても、本当に体調が悪いのだろうか? と思われるだろう。そういたことにおいては事実と証拠を示すことで、説得力を持たせることができる。体調が悪い場合は医師による診断書が一番の証拠となるだろうし、その他にもその人が日常的にどういった態度でいるかも説得力に影響を与える。仮病を常習的に使っている人の「体調が悪い」は狼少年のように説得力の欠片もないだろうが、目に見えた体調の悪さをおしてでも出てくる人の「体調が悪い」は重く説得力を感じさせるだろう。
 しかし体調が悪いというような証拠の有無が明確なものであれば、そうした証拠などによって相手を説得することもできるが、そうした証拠がない場合は言動によって相手を説得させることになる。極端な例として、相手を騙す詐欺は根拠のないものをあたかも根拠があるもののように装わせ、相手を説得し騙してしまうものである。と言っても、そうしたものに騙されるのは元々そうした知識を持たない者たちだが。
 そのようにどうすれば相手を説得できるのか、説得するためにはどうすればいいかを考えられることが説得するための意識である。そして私は説得の意識を持っていない。

 しかしなぜ私が文章を書くのかといえば、理解されるためではない。
 私は私の思考を文章化することによって残すために、文章を書くのである。
 私はあくまで私のために文章を書いているのである。
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ネタ(面白い・もしくは好きである)と技術(いわゆる上手さ見栄えの良さ)が得点に結びつきやすそうですが、その前に「見られる量」が少なければ得点すら入らないのです。ブックマークは「他の人にも見てもらいたい」と「また見たいと思うだろう」という心理じゃなかろうか。でも、よく知らないね。
見られる量を増やす方法としては「人気ジャンルに手を出す」「いろんな人にアプローチする」なんてのがあります。と言ってもそれらは「入りうる量を増やす」だけで、何かしら引っかかるもの(作品以外も含む)がなければ、閲覧数だけが増えるわけですけどねぇ。
いやまあ、よくは知らないわ。いわゆる「営業」はまだしたくないし。



私の持つ「理想」は「自らを適応」すること。社会がどうあるべきかではなく、人間はどうあるべきかというものであり、それも他者をどうするべきかではなく、自らをどうするべきかというもの。あくまで「適応」であり、ただ「従順」であるというのではなく、究極「理不尽もいかに利用するか」という様。
これ、あれよね。「激流に身を任せ同化する」ような柔の考え方よね。激流を変えられるくらいの力があるなら他者を自らに適応させてしまうこともできるだろうけど、そんな力があるのはごく限られた人であって、それが無いなら自らを適応させる他ないじゃない。



あーいかん、文字を考えるのヤメー! 絵の意識がどんどん薄れてく。
 生理的に。つまり「一切抗いようのない反応・動作」である。
 軽々しく使ってる人もいるが「一切抑えようのない反応・動作」を示している。

 私は常々思う。
 生理的に嫌悪してしまう対象の多い人間はなんと哀しいことかと。

 生理的に嫌悪するというのはなにか。
 興味を抱かないのではなく、興味をもって嫌悪をぶちまけるのである。
 何も想わないのではなく、強く強く嫌悪を催してしまうのである。

 何も考えなければいい、気にしなければいいといった考え方もできない。
 興味を持って嫌悪を自ら増幅させ、ぶちまける様は理性の欠片もない。

 そんな生理的な嫌悪がいかに苦痛か。
 だが、その根本的な原因は相手にはなく、その心にある。
 心との付き合い方を知らない人間にとっては、相手にしか思えないのだろうが。

 心との付き合い方を考えるなど、それを思っても見ない人にとってすれば
  生理的に不可能と思う話かもしれないが、できる人間は多い。
 もちろん、それは「自らの意識」によってできる人間は限られているが、
  本や人などからの影響で心との付き合い方が変わることは往々にしてある。

 本当に生理的なことであるのか。
 それともただそうしたいがためにそうであるのか。


 不幸は不幸であると思うことから始まるように、
  嫌悪による不快感は不快に思うことから始まる。
 その意識は本当に変えようのない「生理的なこと」であるのか?
 それとも何かしらの要因によって変えられうる「意識的なこと」であるのか。

 例えば私は虫に対して拒絶反応を身体が示す。
 精神的にはそこまでの感情を持っていないのにも関わらず身体が反応する。
 それは虫のせいでなく、私がそれを拒絶しているにすぎない。
 だが虫が大嫌いというわけではない。うっとうしいとは思うが。


 なんでもかんでも嫌悪を催していては、楽しめるものが少なくなる。
 限られた世界のなかで、さらに限っては得られるのは微々たるものだ。
 生理的であるというのならばしかたないが、
  そうでないのならば嫌悪をすることは徒労に過ぎない。
 嫌悪することによって得られるものはあまりにも少ないのだから。

 だから私は常々思う。
 生理的に嫌悪してしまう対象の多い人間はなんと哀しいことかと。 
「理性的に考えて、死んだ方が良いと思えることが
 どれほど感情的に辛いかを考えたことはあるかね?」
「人は人として生きている限り悩み続ける。
 唯一それから開放してくれるものは、人として死ぬことだけだ。
 ならば悩み続けるしかないだろう。」


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