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20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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ついったーのめも

メモ,元々派生は「俳優」なのだが、大本も「役柄」より「俳優」に近く「俳優」を見るという意識が自然に根付いており、それが「役柄」の逸脱も多少寛容に受け入れられる要因となっているのではないだろうか。しかし「役柄」へ固執する人にとって、そうした「役柄」からの逸脱は嫌悪の対象である。

続メモ,異なるものたちのことだが、物によって本来ある「役柄」を全て破棄して新しい役柄を「俳優」に与えるということすら行われている。もちろん「役柄」を維持しようというものもあるが、特にそこでは大抵「俳優」として扱われ必要最低限の「役柄」だけを引き継いだ役を演じさせていることが多い。

続々メモ,しかし「俳優」という認識によって、ありとあらゆる物語が活発に創られ、それは楽しまれている。本来の「役柄」の逸脱を嫌悪する人には身の毛もよだつ話となるだろうが。実際作られた役柄によって本来の「役柄」が忘れ去られて、問題となることすらある。何も蔑ろにしてもいいわけではない。

「俳優」によるイメージは本来の「役柄」と同じなわけがない。結局、「役柄」くらいは大本に求めなさいってことになる。 うーんもう寝よう。

   *

 「俳優」>演じる人。演じているイメージ。 = 非原作の人物
 「役柄」>大本の人物像他、本来の役柄など。 = 原作の人物イメージ

 「役柄」を求める> 本来持った役割やイメージを求める。
 「俳優」を求める> 同じ姿かたちのものを求める。

「メモ 俳優としてのキャラクター」と同じような話。
http://andil.blog.shinobi.jp/Entry/519/

   *

「役柄」は「役柄」であって「俳優」じゃない。「俳優」は「俳優」であって「役柄」じゃない。「舞台」は「舞台」であって「劇場」じゃない。「劇場」は「劇場」であって「舞台」じゃない。舞台のために必要なら劇場を借りる。役のために必要なら俳優を雇う。それは当然のことか?

適切といわれる「劇場」があろうと適切といわれる「俳優」がいようと、創りたい物語のためであればかなぐり捨ててもいいのか、か。私には分からない。第一「劇場(演目を行う為の方式・例えば漫画も映画も「劇場」の分類)」の重要性や特色を知らないのに、それらが分かるはずもない。

「劇場(演目を行う方式・例えば漫画も映画も「劇場」の分類)」の適切さを考慮するというのは「綿密な心理戦を映画で描くのは適切なのか」や「目まぐるしいアクションを小説で描くのは適切なのか」という話か。 しかし秀逸な物語は「劇場」を選ばず創られることも多い。では「劇場」の意味とは?

私の視点からでは「劇場」というのは製作者の活動場所によるものでしかなく、その違いは物語の傾向と広報の違いしか見えない。好きなものだけを創りたければ誰にも見せないノートに書けばいいし、より多くの人に見てもらいたければ相応の手段を用いる必要がある、という程度。まあ狭い視点だ。

なんにしても私には知識も意思も足りてない。日課幽香描こう

ちなみに「劇場」やらなんやらのツイートは資本主義的な「劇場」選別のツイートを見てその関係以外のことを考えられなくなって思考を発散させたもの。我ながら不器用だが、元々自由気ままな「劇場」なのに何いってるの? 的な怒りが含まれてたかもしれん。 幽香描こ。
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ツイッターやってて思うけど、相互フォロー(フォロー返し)が怖い。

 フォローは「あなたのツイートに興味があります」っていうものであって、
 「あなたとお友達になりたいです」という具体的な意思ではないと思うんだ。
 具体的に「お友達になりたいです」というのはフォローによるものではなく、
  フォローだけでないアクションが必要になるはずだ、という話。

 返すのが礼儀だという話は、有名な人たちが酷い礼儀知らずということになるし、
  それが例外だというのならば結局、そうでない人へ強要しているに他ならない。
 フォローされたらフォローを返せ、なんて横暴な話だ。
 「あなたに興味を持ちました。だから私に興味を持ってください」
  と言われて素直に興味を持てるような人は暇のある物好きだけだろう。

 なので別にしなくてもいいはずなのだ。

 だからその、したからといって、何も言ってないのに、フォローされても、困る。

   *

 別にまだトラウマとかはないけどね。

 でもあれよ。
 リムられたらリム返すとかくらい別にいいと思うさ。自分した側だけど。

 フォローが怖いのでリスト使い始めたし。
 残念ながら、疑心を許容で排斥することはできないのよ。
 元々許容は排斥に適さず、だいたいは見守るくらいなもの。

 反対に疑心は不要なものを排斥することができる。
 例えば不要なものを分析し、本当に不要であるかを考慮する。

 許容が疑心を排斥しうる方法は数の暴力だけ。
 疑心を持たなければ、不要な疑心を排斥することなどできない。

 必要な疑心を排斥してしまってはいけない。
 そしてその為には、疑心を必要とするわけだ。

   *

 久しぶりに疑心と許容の話。
>芸術を必要とするのは心であり、芸術とは心から生まれうるものであり、
  芸術において心をないがしろにしてしまっては、芸術と言えるだろうか。

 感情を否定することは、芸術を語る資格を捨てているようなものだ。

  *

 とかなんとか思った。
 想うことの欠けた絵なんて、つまらないのに。
 少なくとも、「我(※が:ここでは自己意識・自らが自らであるための意識をさす)」が弱ければ「意志」は弱くなりやすい。欲求自体が弱いのだから、強くなりえないとも言える。
 しかし「我」が強くとも、「意志」が強いということにはならない。分かりやすく言えば「意識」だけあって「行動」が無い状態は、起こりうる。最近の若者にありがちらしい「俺は何か凄いことやるよ」と言いつつ何の計画性もないような状態は、まさに「意識」だけあって「行動」がない状態である。
 つまり、「我」の為に能動的な行動を起こす意志を持っているかどうかだ。
 ただ最低限の半受動的な行動(常識の意識などによる惰性的な行動)しかせず、能動的な行動の伴わない様は、「我」が強いとも言いづらいものだが。他(※た:ここでは他の人間・他の存在・自身でない全てを含む)によって自己意識がいつか満たされると思ってしまっていては、(極端な例えとしては自己が満たされないのは他のあらゆる障害が存在するからという認識など)何もしないのは当然だが。
( そうした人間はあろうがなかろうが、大抵自身の能力をよく知らない。 )

 「我」が強く「意志」が強いことというのは、表面的に「自らの為にあらゆる障害をかえりみず、あらゆる行動をいとわないさま」である。意志は行動でのみ示せるものである。あらゆる想いは行動以外に表現の方法を持たないのだから。


   *

 なんか違う。


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