天才数学者の話を見て、私の思う[天才論]の確信が深まった。
と言っても、いくら確信が深まろうが、証明ができるのは学者なわけであって、私ではない。
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最初の記事[一回目なので]でも、軽く触れていた天才の話。
「人よりもはるかに濃く、鋭く、正確に意識をできる人が、天才などとも言われる人だと思っています。」という文。
実のところ、絵の講座のあとがきにもっと突っ込んだ天才の定義を書いています。
「天才は意識を使いすぎ、大体当たり前の意識が、うすくなってしまうのではないだろうか。」という文章が、画像の中に書かれている。
もっと極端な言い回しをすれば「それだけに意識を向け、それ以外の一切の意識を持たないような状態」で、それに近しい天才は多くいると感じているし、その天才数学者は、その極端すぎる例になる。
私の天才論と言うのは「他者よりも優れた意識を持ち、特定のものへと向け続けられること」だ。
「他者よりも長く強く濃く、鋭く正確な意識を持っている人」と言いかえてもいい。
普通の人は意識が分散し、日常への意識が存在するが、その意識すらも特定の何かへと向けるような人が天才だと。
天才には変人が多い、と言われるのも結局はそうした状態にあるからではないだろうか。
残念ながら、人間の意識は有限である。その有限の中、最大限有用に使える人が天才であり、日常への意識すらも削ってしまいかねないのが天才なのだと。
それが、私の天才の定義だ。
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一緒に見ていた母が、そうした状態にある人はある意味不幸なんじゃないか、ということを言った。
でも私は、結局それ以外の意識が無い、他に求めているものが無い以上、その人にとってはそれが幸せなんだろうと言った。
普通の人は他に求めるものがあって、意識が分散して、日常に意識があって。
結局その人の心の問題。その人の心が満たされるのであれば、いくら貧相な状態であっても幸せなのだと。
もし10それを求めていて、10それに満たされている状態から、日常という何かのためにその10を無理矢理削っても、拒絶しか生まれない。
一番満たされているのであれば、それが幸せなはずだと。
あと、天文学者だとか、海洋学者だとかは知るためになるっていうのは分かるけど、数学者がなぜ数学へとのめりこんだのか、と言う話には、私もよく知っているわけではないが、いわばミステリー小説の謎を解きたい、のと同じようなものじゃないかと例えた。
結局、知りたいから、という根本は変わりえない、と。
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私の意識の話は、普通の人が考える場合、[意識]を[時間]に置き換えると分かりやすいかもしれない。
意識と言われてもその際限の感覚が分かる人はそう居ない。
だが、時間の際限の感覚は社会において不可欠な要素で、分かりやすいと思うのだ。
天才学者が全ての意識をそれに向けた、という言い回しを、天才学者が全ての時間をそれに向けた、とすれば分かりやすくはなるはずだ。
しかし、私の伝えたいニュアンスとして、正確とは言い難いが。
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