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20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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 生理的に。つまり「一切抗いようのない反応・動作」である。
 軽々しく使ってる人もいるが「一切抑えようのない反応・動作」を示している。

 私は常々思う。
 生理的に嫌悪してしまう対象の多い人間はなんと哀しいことかと。

 生理的に嫌悪するというのはなにか。
 興味を抱かないのではなく、興味をもって嫌悪をぶちまけるのである。
 何も想わないのではなく、強く強く嫌悪を催してしまうのである。

 何も考えなければいい、気にしなければいいといった考え方もできない。
 興味を持って嫌悪を自ら増幅させ、ぶちまける様は理性の欠片もない。

 そんな生理的な嫌悪がいかに苦痛か。
 だが、その根本的な原因は相手にはなく、その心にある。
 心との付き合い方を知らない人間にとっては、相手にしか思えないのだろうが。

 心との付き合い方を考えるなど、それを思っても見ない人にとってすれば
  生理的に不可能と思う話かもしれないが、できる人間は多い。
 もちろん、それは「自らの意識」によってできる人間は限られているが、
  本や人などからの影響で心との付き合い方が変わることは往々にしてある。

 本当に生理的なことであるのか。
 それともただそうしたいがためにそうであるのか。


 不幸は不幸であると思うことから始まるように、
  嫌悪による不快感は不快に思うことから始まる。
 その意識は本当に変えようのない「生理的なこと」であるのか?
 それとも何かしらの要因によって変えられうる「意識的なこと」であるのか。

 例えば私は虫に対して拒絶反応を身体が示す。
 精神的にはそこまでの感情を持っていないのにも関わらず身体が反応する。
 それは虫のせいでなく、私がそれを拒絶しているにすぎない。
 だが虫が大嫌いというわけではない。うっとうしいとは思うが。


 なんでもかんでも嫌悪を催していては、楽しめるものが少なくなる。
 限られた世界のなかで、さらに限っては得られるのは微々たるものだ。
 生理的であるというのならばしかたないが、
  そうでないのならば嫌悪をすることは徒労に過ぎない。
 嫌悪することによって得られるものはあまりにも少ないのだから。

 だから私は常々思う。
 生理的に嫌悪してしまう対象の多い人間はなんと哀しいことかと。 
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