20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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結局、宗教は心を安定、と言うか安心するために作られたもんなわけで、心が揺らぐ時など頼れる場所があれば、みょうちくりんな場所、泥舟やら薄氷の上やらに誘い込まれることも少ないわけです。
なぜって、宗教における大義のほとんどは、安心しましょ、っていう話であって、物を巻き上げるだとか、金を巻き上げるだとかの話ではない。 お金を不浄なんていう人は、お金というシステムが、どれだけの問題を起こらない状態にしてきたか、考え直すべきです。 お金と言う価値が普遍的に大体決まっているものを、物々交換することによって、経済はスムーズに流れるわけです。 経済がスムーズに流れるからこそ、社会というものは安定してなりたつわけで。ただし、それの持つ影響力は、確かに大きいものです。 まあ、世界同時不況なんていう昨今でも、お金と言うシステムが悪いのではなく、盲目的に大量のそれを扱っていたバカが引き起こしただけ。大きなお金は問題になりやすいから。 日本人が受験前、神社やらお寺やらに、合格祈願をするのも安心して受験へ望む為の手助けなわけで、それで合格するかと言えば、精神的なミスを減らす程度の効果しかないはずです。 その効果が、合格するのに重要な人もいるでしょうが。まあ精神的な問題は、諸問題に繋がりうるので、その問題を取り除くことは大切と言えば大切です。 宗教が助けようとしたのは、どうせ心だけなんですから。 と言うより、どうせ宗教そのものが助けられるのは心だけなんですから。 お布施、賽銭なども、何かしらの感謝を行うという習慣みたいな部分から、富の過分から感じる心の荷を和らげるみたいな部分くらい。何かどうかでなく、心の問題です。 また例えば、人を助けることが生きがいで、それを人生に捧げている人が困っているならば、助けたいとも思えるものですが、人から物を貰い、何も与えないなんていう人が困っていても、自分でどうにかしろと思いたくもなる、と私は思うわけですよ。自分の耳が痛いですが。 ま、私の思い方を言うならば、己の不手際だけで己に問題が出ていたとしても、己が作った問題だと、自分で解決せいと思いたくなります。でも、己の作った問題でないのならば、手助けぐらいしたいものだわさ、ねえ。 「己の説法で耳を痛める。」ような状態ですがね。 * と、私は思うんですが。 と、私は思うんです。 PR ![]() ![]() |
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