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20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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 [見る][描く][想う]が重要
  このような考えることは邪魔になるだけです。

   *

 前置きしておきますが。
  1.私のこのような事を考えるという意識は、絵を描く上で邪魔です。
  2.私が実行できているわけではありません。
  3.私は絵を描いている最中、別のことへ意識が向いてしまい、絵を見るという事、線を描くという事への意識を欠きます。絵を描かず、意識を欠いてます。

   *

 絵を描く上での意識は[見る・描く・想う]の三つで十分だ。
 見なきゃ何も描けない、描かなきゃ思い通りにできない、想わなきゃものが定まらない。

 上達したいと想うのならば、とにかく色んなものを見て、絵へと結び付けていくこと。
 何を描きたいのか、どう描きたいのかを思うこと。
 そして、見たものや、描きたいものをどんどん描いていくこと。
 描いているもの、描いたものもキチンと見直すこと。

 それが満足に出来ていないのならば、技術の知識はいくらあっても無意味。
 目が悪く、手も自由に動かせず、想像もろくに出来ないのに、技術の知識があっても無駄というより邪魔。

 よく言われる「上手くなりたければ、とにかく枚数を描け」という言葉も、[見る]こと[描く]ことを[覚えるため]。
 ちゃんと見て、枚数描かなきゃ、思い通りの線すら描けない。
 「ちゃんと見もせず、思い通りの線も描けずに、思い通りの絵が描ける道理がどこにある」
 その為には、とにかく見て、とにかく描いて、とにかく想う事。

   *

 練習は、よく「質より量」と言われます。
 それは、練習において量をこなすことこそ、質の高い練習だからです。

 量をこなせば、どこが悪かったのかが分かりやすく、それを自覚しやすいです。
 練習においてはどこが悪いのかを知ることは特に大切。

 こんな話もあります。
 「陶芸の授業で、生徒を二組に分け、片方は量だけを評価し、片方は質だけを評価する事にしました。
  量のグループはとにかく量を求めて、質は最低限で構わず、一方質のグループはとにかく質が良さを求めて、複数作っても評価に関係ないという形。
  そして、全ての授業が終わて評価をする時、不思議な事実がありました。
  特に質の高いものは、全て量のグループから提出されたものだったそうです。」

 陶芸だから、ではなく全てにおいて、量の練習は不可欠です。
 人間は感覚が最初から優れているわけでなく、何度も繰り返すことに拠ってその精度を上げるものです。

 感覚が鈍いのに優れているものを作ろうとしても、感覚が鈍くてはそうできません。
 例えば、運動をしない人が綺麗な走りを出来るかといえば、筋肉の問題だけでなく、感覚の問題が立ちはだかるわけです。分かりづらいですが。
 もっと分かりやすく例えれば、いままで文字を書いたことのない人が、綺麗な字を描こうとしても、満足に線を描くことすらできなくては、無理な話です。

 では、どうすればその感覚を研いていけるのか、と言えばそれは量の練習をして体に覚えこませるしかありません。
 そこらへんを何もせずに、才能だのなんだの言っているような馬鹿もいますが。

 文字を書けるのであれば、絵を描けない道理はまだありません。使う感覚はかなり異なるとしても、必要な感覚は半分一緒なのですから。
 文字は、文字を見ながら、文字の線を描くという工程を経ます。絵も、絵を見ながら絵の線を描くという工程です。
 意識の仕方がかなり異なってしまいますが、する事は同じようなことです。見て、描く。

 [見る]、[描く]。
 それに加えて、そこにどんなものを見て描くのか、どんな風に描くのか、を考える[想う]という事。
 [見る]・[描く]・[想う]
 この三つだけで十分です。

    *

 もし、出来なくてもそれは[見る]ことの工程の何かが悪い、もしくは[描く]ことの工程の何かが悪い。
 才能が悪いなんていう不明瞭な言い訳なんてしないで、具体的にどこが悪いのかを自覚しなければいけない。
 どこが悪いのか自覚をすることが出来れば、それを修正することも、少しは容易になる。

 才能は意識の仕方だと思った方がいいです。
 才能が無いのは、意識が無いだけ、と。それなら意識をすれば良い。

   *

 考えなくていいことですが、絵が上手い、という言い回しも特に不明瞭です。
 運動神経が良いと言っても、足が速いのか、ボールを強く投げられるのか。足が速いと言っても、短距離なのか、長距離なのか、ということは分かりません。

 特に絵は分野によって、かなり違います。
 輪郭だけを描き強くデフォルメを行う漫画の絵なのか。
 輪郭を枚数描いて動いているように見せられるアニメーションの絵なのか。
 色彩を表現する油彩、水彩のようなものなのか。
 ペンだけで濃淡などすら表現できるようなペン画なのか。
 パソコンを使った、機械的な表現なのか。

 抽象主義なのか、写実主義なのか、それ以外なのか。


 勿論、分野が異なって、技術が違ってもすることは一緒でしょう。見る・描く・想う。
 ただ何を想うのかで、それらの道は異なるでしょうが。

 もっと言えば、優れた美しい線を描けるのか、あるいは素早く動きを捉える線を描けるのか。
 濃淡を的確に描けるのか。大げさな表現で描けるのか、繊細な表現を出来るのか。
 絵が上手いと一口に言っても、その中のどこが優れているのかは微妙なところです。

 あとは、見る側と、描く側でその傾向も異なるでしょう。
 見る側の、絵が上手いと思うものはおおよそ、[粗が見えない][表現が引きつけられる]の二つで、
 描く側の、絵が上手いと思うものはおおよそ、[自在に描ける][思い通りor豊かな表現ができる]の二つだと思います。
 絵が下手となれば[粗が見える][表現が貧相と感じる]:[思い通りに描けない][思い通りの表現が出来ない]の対比。

 ただ単に下手と言っても、粗だらけと言っても、[線がぐちゃぐちゃ]なのか[形がぐちゃぐちゃ]なのか[何を描いているのかわからない]のか[形状として違和感を感じる]のかなど、原因は複数まとまってることがあっても様々です。
 でも、そうした個別のところを指摘するよりは、特に[見る]ことや[描く]ことを促すだけで十分だとも想います。
 原因にだけ意識が行き、見ることや描くことを疎かにしてしまいかねないため。

 絵が上手いという事が不明瞭であっても、その中を明瞭にしたところで、それがそのまま技量につながるわけではありません。それに、明瞭にするのは芸術などの学者の仕事です。
 文句を五万と並べる暇があるならば、絵を万見て絵を万描く方が、上達するでしょう。

 絵に文句はいらない。
 [見る][描く][想う]の三つだけでいい。

    *

 私は、文字を書いている際に、他の事を考えません。
 ですが、絵を描いているときは、他の事を考えてしまいます。

 ハッキリ言えば、絵を描く上でそれは邪魔でしかありません。
 絵が上手くなりたければ、細かいことは考えるな。
 ただ[見て][描いて][想えば]いい。

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 私は、寝るとそう簡単には起きません。
 ですが、寝るまで頭は回転しっぱなしです。
 その為、寝ようとしているときに、考えが浮かぶなんてこともよくあります。
 で、メモをしておかないと、忘れます、確実に。

  *

 絵の見る・描く・想うという三要素は[学習 思案 行動]の三要素であると気づく。
 勿論絵においては、かなり傾向を持たせる形で見る・描く・想う・になっている。

 が、思えばこの「学習 思案 行動」の三要素は、他の事においても大変重要であると感じた。
 この三要素を欠いてしまっては、何事においても上達が困難なのではないだろうか と思うほど。

  *

 私がこうした事を考えるのは凡夫であるからだ。
 いや、こうした事を考えられるという知能的傾向を持っているのは理解できる。

 だが、私がこうして考え、悩みを解決するように悩むのは、やはり凡夫であるからにすぎない。

 病などによって体調が悪い場合、意識も薄まりやすい。
 意識によって物事を行う際、十分な濃さの意識ができず、失敗をしてしまう事も多い。

 今日は、腹痛で久しく訪ねてきた知り合いの遊びに付き合えなかった。

   *

 スポーツで天才と呼ばれるような人は、病であっても十分な意識を持っていることがある。
 むしろ、無意識を引き出しているだけで、意識は薄くても問題は軽いんじゃないかとも思える。

 代表例は、2006年フィギュアスケートのプルシェンコ選手。
 ある時、39度の熱がありながら、華麗な演技を成し遂げていた。
 本当に熱があったのかと怪しいくらいです。

 細かいところまで意識を持っているのではなく、無意識にできるよう体へ刻みこんでいるのではないだろうか。 
 まあ、分からないけど。

   *

 素人、は大抵、意識が備わっていない。
 意識が備わっていないから、上手くできない。

 絵において、私が重要だと思っている意識は[見る][描く][想う]を引き出すこと。
 [見る]は様々な絵や物を見ることでイメージの意識を持つことや、描いている絵がこれで良いかどうかを見る意識。
  これが備わっていないと、なぜ駄目であるのか分からなかったり、描くもののイメージが湧かなかったりする。
 [描く]はただ描こうとする意識ではなく、正確な描画をする為の意識、思い通りに描くための意識。
  最中というより、練習の段階で必要な意識で、あとは慣れの無意識を引き出す程度、かもしれないけど。
 [想う]は第一に意識をするという意味、あと描くもののイメージをする意識や描くことのイメージの意識、考える意識。
  いくら見れたり、描けたりしても、描くものをイメージしたり、デザインしたりできなければ、つまらないものになる。
 私が、そう思っているだけですが。
 プロなどは、その意識を経験によって意識せずとも意識している状態にあると、私は思っている。

 下手な人に対して常々言いたくなる言葉は「物や絵を見ないで描けるのか?(見る)」「満足に線も描けないで思い通りに描けるのか?(描く)」「何をどう描こうとしているのか?(想う)」とかなんとか。自分にも言い聞かせる言葉なんですが。

 私も特に、色をキチンと見てきていない為、そのイメージが無く、変に薄い色を使ってしまう。
 だが、その上で不足しているのは[色を描くこと]で、その為の不足は[色を見ること]と、簡単な話にできる。
 何が欠如しているのか、明確だ。

 そうやって、[見る][描く][想う]は原因を簡潔にできる。
 またそれらが大切だと想う前に、大切だと想っていたことは[ぐらうす-にーざ:http://gurous.niza.nobody.jp]の[絵講座]に描いてある。[見る描く想う]の意識の、前身のようなものだ。
 何を意識すべきなのかを、描いているだけだが。

 絵講座と言えば、大抵描き方、技術ばかりをのべていく。それで、見る事描く事などを促しているのだろう。
 それは、それでいいと思う。 が、欠如してしまいやすくないかは、不安に思う。
 それに技術に関して、私がどうこう言えるわけもない為、他の所で技術は見てもらうとして、大切だと想うことを描いた。


 まあ、正直言えば、私はこんな文章を書く意識、そして時間をもっと絵に向けるべきだとは想う。



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