[見る][描く][想う]が重要
このような考えることは邪魔になるだけです。
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前置きしておきますが。
1.私のこのような事を考えるという意識は、絵を描く上で邪魔です。
2.私が実行できているわけではありません。
3.私は絵を描いている最中、別のことへ意識が向いてしまい、絵を見るという事、線を描くという事への意識を欠きます。絵を描かず、意識を欠いてます。
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絵を描く上での意識は[見る・描く・想う]の三つで十分だ。
見なきゃ何も描けない、描かなきゃ思い通りにできない、想わなきゃものが定まらない。
上達したいと想うのならば、とにかく色んなものを見て、絵へと結び付けていくこと。
何を描きたいのか、どう描きたいのかを思うこと。
そして、見たものや、描きたいものをどんどん描いていくこと。
描いているもの、描いたものもキチンと見直すこと。
それが満足に出来ていないのならば、技術の知識はいくらあっても無意味。
目が悪く、手も自由に動かせず、想像もろくに出来ないのに、技術の知識があっても無駄というより邪魔。
よく言われる「上手くなりたければ、とにかく枚数を描け」という言葉も、[見る]こと[描く]ことを[覚えるため]。
ちゃんと見て、枚数描かなきゃ、思い通りの線すら描けない。
「ちゃんと見もせず、思い通りの線も描けずに、思い通りの絵が描ける道理がどこにある」
その為には、とにかく見て、とにかく描いて、とにかく想う事。
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練習は、よく「質より量」と言われます。
それは、練習において量をこなすことこそ、質の高い練習だからです。
量をこなせば、どこが悪かったのかが分かりやすく、それを自覚しやすいです。
練習においてはどこが悪いのかを知ることは特に大切。
こんな話もあります。
「陶芸の授業で、生徒を二組に分け、片方は量だけを評価し、片方は質だけを評価する事にしました。
量のグループはとにかく量を求めて、質は最低限で構わず、一方質のグループはとにかく質が良さを求めて、複数作っても評価に関係ないという形。
そして、全ての授業が終わて評価をする時、不思議な事実がありました。
特に質の高いものは、全て量のグループから提出されたものだったそうです。」
陶芸だから、ではなく全てにおいて、量の練習は不可欠です。
人間は感覚が最初から優れているわけでなく、何度も繰り返すことに拠ってその精度を上げるものです。
感覚が鈍いのに優れているものを作ろうとしても、感覚が鈍くてはそうできません。
例えば、運動をしない人が綺麗な走りを出来るかといえば、筋肉の問題だけでなく、感覚の問題が立ちはだかるわけです。分かりづらいですが。
もっと分かりやすく例えれば、いままで文字を書いたことのない人が、綺麗な字を描こうとしても、満足に線を描くことすらできなくては、無理な話です。
では、どうすればその感覚を研いていけるのか、と言えばそれは量の練習をして体に覚えこませるしかありません。
そこらへんを何もせずに、才能だのなんだの言っているような馬鹿もいますが。
文字を書けるのであれば、絵を描けない道理はまだありません。使う感覚はかなり異なるとしても、必要な感覚は半分一緒なのですから。
文字は、文字を見ながら、文字の線を描くという工程を経ます。絵も、絵を見ながら絵の線を描くという工程です。
意識の仕方がかなり異なってしまいますが、する事は同じようなことです。見て、描く。
[見る]、[描く]。
それに加えて、そこにどんなものを見て描くのか、どんな風に描くのか、を考える[想う]という事。
[見る]・[描く]・[想う]
この三つだけで十分です。
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もし、出来なくてもそれは[見る]ことの工程の何かが悪い、もしくは[描く]ことの工程の何かが悪い。
才能が悪いなんていう不明瞭な言い訳なんてしないで、具体的にどこが悪いのかを自覚しなければいけない。
どこが悪いのか自覚をすることが出来れば、それを修正することも、少しは容易になる。
才能は意識の仕方だと思った方がいいです。
才能が無いのは、意識が無いだけ、と。それなら意識をすれば良い。
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考えなくていいことですが、絵が上手い、という言い回しも特に不明瞭です。
運動神経が良いと言っても、足が速いのか、ボールを強く投げられるのか。足が速いと言っても、短距離なのか、長距離なのか、ということは分かりません。
特に絵は分野によって、かなり違います。
輪郭だけを描き強くデフォルメを行う漫画の絵なのか。
輪郭を枚数描いて動いているように見せられるアニメーションの絵なのか。
色彩を表現する油彩、水彩のようなものなのか。
ペンだけで濃淡などすら表現できるようなペン画なのか。
パソコンを使った、機械的な表現なのか。
抽象主義なのか、写実主義なのか、それ以外なのか。
勿論、分野が異なって、技術が違ってもすることは一緒でしょう。見る・描く・想う。
ただ何を想うのかで、それらの道は異なるでしょうが。
もっと言えば、優れた美しい線を描けるのか、あるいは素早く動きを捉える線を描けるのか。
濃淡を的確に描けるのか。大げさな表現で描けるのか、繊細な表現を出来るのか。
絵が上手いと一口に言っても、その中のどこが優れているのかは微妙なところです。
あとは、見る側と、描く側でその傾向も異なるでしょう。
見る側の、絵が上手いと思うものはおおよそ、[粗が見えない][表現が引きつけられる]の二つで、
描く側の、絵が上手いと思うものはおおよそ、[自在に描ける][思い通りor豊かな表現ができる]の二つだと思います。
絵が下手となれば[粗が見える][表現が貧相と感じる]:[思い通りに描けない][思い通りの表現が出来ない]の対比。
ただ単に下手と言っても、粗だらけと言っても、[線がぐちゃぐちゃ]なのか[形がぐちゃぐちゃ]なのか[何を描いているのかわからない]のか[形状として違和感を感じる]のかなど、原因は複数まとまってることがあっても様々です。
でも、そうした個別のところを指摘するよりは、特に[見る]ことや[描く]ことを促すだけで十分だとも想います。
原因にだけ意識が行き、見ることや描くことを疎かにしてしまいかねないため。
絵が上手いという事が不明瞭であっても、その中を明瞭にしたところで、それがそのまま技量につながるわけではありません。それに、明瞭にするのは芸術などの学者の仕事です。
文句を五万と並べる暇があるならば、絵を万見て絵を万描く方が、上達するでしょう。
絵に文句はいらない。
[見る][描く][想う]の三つだけでいい。
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私は、文字を書いている際に、他の事を考えません。
ですが、絵を描いているときは、他の事を考えてしまいます。
ハッキリ言えば、絵を描く上でそれは邪魔でしかありません。
絵が上手くなりたければ、細かいことは考えるな。
ただ[見て][描いて][想えば]いい。
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