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20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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 例えば「バラ」を漢字で書けといわれても、書ける人は限られている。そして、書ける人はその漢字を良く見て練習しているような人ばかりである。
 だが、そのバラという漢字を読むことにできる人は、書ける人よりもはるかに多い。
 なぜなら「読む」ために必要な意識と「書く」ために必要な意識は重なる所はあれども別々の意識だからである。

 大きく形態は異なるが、これは絵に関しても言えることである。
 「見る」意識はあれども「描く」意識が無いというのはバラの話に近い。
 「良し悪しの意識」があるため全く同じ話ではないし、もちろん一定の形を描画する漢字であれば多少の練習で身につけることもできるが、ある程度一定でかなり不定の描画を行わなければいけない絵の場合、意識と練習がなければ身につけることはできない、といった違いはあるが。
 少なくとも「感じるために見る意識」と「描くために見る意識」は異なるのだ。
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 人が描いているところを見ることは、相手によっては有益である。
 描画を見ることによって自らの意識も強くなることもあり、より絵へ向き合いやすくなってくれる。ただし自信をなくすような相手や、おかしいと感じてしまう相手は危険。

 また可能な限り自分の描画方法に近い方が望ましい。
 極端な話、自分の描画を撮っておいてたまに見るとかそういう感じもありかと。

 思えば、今であればネットなりパソコンなり本なりでそれらを日常的に見ることはできるが、昔は画家の所へ弟子入りなりなんなりしなければ見ることはできなかった。芸術というものを日常的に見ることなどできなかったような状態である。
 もちろん実物を見る方が望ましいのだが、何も見ないよりはマシだ。
 私に足りないのは、人と接すること。
 もっと分かりやすく上げると、接する友人。

 例えば私の絵が雑なのは何より「見てくれる相手」が目に見えてないからだ。
 実感として、見てくれる相手を感じている時は丁寧になりやすいが、それらの意識もない場合、適当にすませてしまいやすい。あくまでやすいだが。
 でも、そうした相手がいないのは、私が接そうと想えないから。


 ははは、友達いないじぇ。
 才能と呼ばれる技能そのものが、最初から身についているはずはない。
 例えば最初から身についているのだとしたら、何もない部屋で育てられてもそれができてしまうことになり、ではその知識をどこから得たのか? 遺伝子か? 遺伝子でそうしたことが最初から身についているのであれば、なぜ言葉などは学習しなければ身につかないのか。
 最初から身についているはずはないのだ。

 人間に備わっている「先天的な才能」と呼びうるものは基本的な能力である。
 脳の構成、筋肉の質、内臓の状態うんぬんは「遺伝子」のものから生成しており、親子や兄弟で能力が似通うのはそうした遺伝子の優劣とも言われうるそれならば「先天的な才能」と呼びうるだろう。
 ただし本当に良いのか悪いのかは目に見えてでる能力は「後天的な才能」によって左右されるため同じ条件で比べなければ単純な比較はできないし、能力においてどこまでか後天的でどこまでが先天的なのかは目に見える単純なことしか分からない。
 ちなみに「後天的な才能」とは「環境」であり、特に影響を受けやすいといわれる幼少期の環境のことを指す。ただし目に見えた能力を表すのは、それからしばらくしてからであるため、それらやそれらの方法を単純に知ることはできない。

 また幼少期を過ぎても目に見えた能力が無いからといって、「無い」と断ずるのは単純すぎる。多少の技術的なことであれば意識(主に意志と知識)によって補い、それを満たすこともありうるだろう。
 分かりやすくいえば「あなたは人間の何を知っているのですか?」ということである。

   *

 はぁ。
 いい加減な思いつきはなけなしの知識から搾り出したものであり、優秀な勘は膨大な知識から無意識が導き出したものである。

   *

 コンピューターが絵を描けるか?

   *

 囲碁は可能な手が極めて多い為、コンピューターは不得意とする。
 コンピューターは「大雑把な認識」が不得意なため、ある程度限定させて考えさせなければ思考時間が膨大になってしまい、限定させた場合は考えない部分が発生してしまうなどの欠点ができる。
 慣れた人間が囲碁を極めて早いスピードでも打てるのは、経験からどのようなものであるか「大雑把な認識」ができるためどの部分を深く考えるべきかを、いわゆる「直感」のようなもので判断することができるためである。

 絵も同様のことが言える。
 絵には「何を描くか」「どのように描くか」「どう描くか」といった様々な空白がある。絵を描くことに慣れている人間はそれらを経験と知識によって満たせるが、慣れていない人間などは満たすために必要な知識を求めるか、あるいは諦めたりする。
 絵はいくら論理的に思考しようともそれ自体は曖昧なもので、実現をするのは「直感」や「感覚」であり必要な経験と知識がなければ絵を描くことは難しいのである。
 どのような構図か、どのような描き方か、どのような形か、どのような色か、どのような陰影か。少なくとも「ひらめき」や「おもいつき」は0から生まれるものではない。

   *

 思い通りに描けないのならば、思い通りに描けるようになるまで練習する。
 何も思いつかないのであれば、思いつくまで様々なものを見て想いめぐらせる。
 何もせず、何も見ず、何も想わず、絵を描くことはあまりにも難い。

   *

 見描想の真髄は人生の中に絵があるのではなく、絵の中に人生があるような状態である。

   *

 ただ、こういうことを考える思考そのものは絵において邪魔なんですが。


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