20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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例えば、筋肉は適度な負荷と栄養、休憩を与えることで、肥大化する。
それは「そのくらいの筋肉が必要だ」と、体が判断した為である。 こうしたことは、何も筋肉ばかりではない。免疫力は多少汚れることでつくように、意識もそうしたものである。 意識へ負荷をかけることによって、より正確に、広範囲へ行き渡らせられるようになる。 例えば、学校教育というのも、そうした側面を有している。 多用な科目を次々と学ばせることによって、意識の訓練を行っていると言ってもいいだろう。 ただし、勿論過度な負荷を与えられると、筋肉であれば断裂、 免疫も悪ければ死亡すらしかねないように、意識への負荷も同様である。 一般的に使われている単語を用いるとすれば「ストレス」が一番分かりやすいだろうか。 ただ強いストレスばかり「ストレス」と呼ばれるが、負荷の全ては「ストレス」と呼べるものである。 例えば大型の動物が筋肉を発達させているのも、「重力」というストレスを受けているからであり、 また大型の動物の皮膚が硬かったり、あるいは毛に覆われていたりするのは 自然の「環境」というストレスを受けているからに他ならない。これらもストレスである。 では意識のストレスとは何か、と言えば意識そのものだろう。 元々、知能は物事を処理する為、即ち外部ストレスを御す為に身についているものであり、 全ての日常動作がストレスとなりえるものだ。と言っても、あくまで意識だけである。 知能は「必要であると判断された動作」の処理を簡易化させる機能を持っている。 いわゆる「慣れ」だ。 例えば「歩く動作を意識しているか」と問えば、ほとんどの人はしていないと答えるだろう。 その歩く動作そのものが意識にストレスをかけているか、と考えたとき 「歩きながら考える」ことが容易である以上、そのストレスは極めて小さいと言える。 そうした「無意識の慣れ」だけで、「意識が発達するかどうか」と言えば極めて難しいだろう。 意識をして行動することで学習し、意識できる範囲は広がりえるのだ、と。 ***** 本題 ■ 絵の為の意識 であるからにして。 単調な、一定な、代わり映えの無い、そんなイメージばかり見ているだけでは、 想像力を膨らませることなど、不可能に近しいことだ。と私は思う。 見描想における「見る」と「想う」の関係である。 そして「計算式を知らずに計算を行うことはできない」ように、 また「計算の練習をしなければ、計算は難しい」ように、 「見る」ことと「描く」ことをしなければ、想いうかべることはあまりにも難しい。 PR
現在はドット絵に意識を偏重させてます。
どのくらい続くかはわからんけどね。
自らの中で完結できるほど、世界、社会は単純でない。
複数の視点をもって考慮するにしても、人間は意識に限界を持っている。 つまり必ず「欠けてしまう考慮」が存在しえることであり、 人間はそれを「会議」などによって補うことで対処をしている。 それが民主主義政府における、「議会」の役割である。 その為「議会」は、Yes/Noの「多数決」に縛られるようであってはいけない。 Yes/Noに縛られた場合、示してはならない考慮が暗黙に作られてしまい、 考慮の欠如による問題発生の可能性を高めてしまうものである。 もちろん「議会」において、論理性の欠いた考慮を用いる事は、 議会の停滞、決定の遅延を招きかねない為、避けるべき行為であり、 そうした考慮を行うような輩を落とす為の「ふるい」が、「選挙」である。 「選挙」は、そうした役割を持つもののはず、 と言うより、そうでなければならないと私は思っている。 だが、昨今の選挙を見る限り、国民は「人を選ぶ」のではなく 「Yes/No」を決めているに過ぎないようにしか見えない。 むしろ「Yes」を決めているようにしか見えなかった。 残念なことに議員の「ふるい」は「選挙」以外にほとんど無い。 全く盲目的に選んでいるなどとは思わないし、信じくないが、 それらを選別するのは「国民の判断」である。 もし「議会」が機能を果たさず、「自己完結的決定」のみで行政が行われる場合、 その行政が正常な機能を果たさない危険度は、高く見積もることができてしまう。 もちろん、党の自己完結であっても、その党内部で会議が行われているのならば、 いくらか危険度の見積もりも下がるだろうが、 個人の自己完結が党の決定となるような状態は、危険極まりない。 そうしたことも考慮しなければならないのが「国民」である。 そして政府の問題は、選んだ「国民の責任」でもある。 ***** で思ったのですが、失敗した時とかは 「責任をとらなければならない」なんて言うけど、 どう責任を取るの? って疑問があるわけです。 特に、行政的な責任は、どうやって果たすの? 党の責任であれば、代表の辞任だとかでいいよ。党の問題だもんね。 でも、行政によって多大なる問題が起きた場合、どう責任をとるの? 個人が失敗をしたら会社や親族などが補うし、 会社が失敗をしても国がいくらか補ってくれることもある。 じゃあ国が失敗したら? 実の所そうした場合に補償をしてくれる保証なんて、どこにもないんですよ。 結局、責任を負わされるのは、国民なんです。 でも「民主主義政府は国民の責任」ですから、当然なんですがね。 「政治的活動をしなかった」責任だってありえますよ。「国民の責任」ですから。
私は思想家だろうか。
少なくとも、自心教教典を発表している時点で、 法的には知らないが、形としては自心教教祖と名乗れなくもない。 教としての形を成していないので、名乗れないかもしれないが。 ただわかることは、私にそのような気力など無いことだ。
戦争において、敵勢力の殺害を行うのはなぜか。
それは、対抗勢力の無力化において、効果的かつ確実な方法が殺害だからである。 それは個人の無力化ばかりでなく、圧倒的武力を示せれば、 敵勢力自体の士気を低下させ、結果弱体化し、無力化も容易になる。 だが、それは殺害よりも効果的な方法が無い為であり、 殺害よりも確実かつ効果的な「鎮圧兵器」があれば、殺害など必要ない。 そして、殺害の代わりとなりえるような兵器はまだ存在しない。 |
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