20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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(9の続き)
私は親ではないので子育てのことなど分からない。だが、思うことはある。 子供の行動というのは納得の根拠を知ろうとしているのではないだろうか。そのために好奇心を持って何かしらに興味を持つのではと。 大人でも好奇心とは納得を得るためにはどうすればいいのかを探っていくための欲求ではないだろうか。特に子供が何かを欲しがる行為は「試行錯誤」の一部になっているのではないだろうか。 「試行錯誤」の末、何が望ましいかを納得の方法を覚えるのではないだろうか。それが本当に納得に至る方法であるかそうでないかは別だが。 誰かが言っていた。過保護な親、特に行動を抑えてしまう親は子を飼い殺すと。それは保護という名目で好奇心の行動すら抑えつけた挙句、行動をしないことが納得の方法と思い込んでしまわせ、親の納得のためだけに子を利用する悪魔の所業とすら言えよう。そして少なくともその納得はいつか破綻する納得である。 かと言って子の好奇心に無関心な親でも、子が強い好奇心によって踏み込んではいけないところへ踏み込む可能性もあり、それはそれで危険であるとも言えよう。それによる失敗でも行動をしないことが納得の方法と覚えてしまう可能性もある。子の好奇心を発散させることをしない親でもそうなりえるかもしれないが、最低限の制御は必要だと考える。 ただその制御は言語で考慮できるほど単純でもない。特に現代は好奇心を惹くものがいくらでも溢れ、その裏には危険も溢れているのだから、それこそ「子供を見る」という言い方くらいしか思いつかない。まあ、私の知るところでもないのだが、もし穿った納得の方法を覚えてしまったら厄介極まりないし、それらを完全に制御する方法はどこにもない。 社会においては利用すること利用されることは当たり前のことだが、納得されるのは相互の理解納得があってこその利用だけであり、相互の理解もなく一方的に利用することは社会においてでも悪と言える。その形は様々ではあるものの、あまり許されるべきではないことだろう。 こと子供は好奇心によって様々なことを求めるが、その好奇心を利用されることもある。そしてそれが納得の方法に繋がるかは分からないし、そうでないだろうと言われやすい。 それでもかと言って子供の好奇心を抑制してしまえば、そこに残るのは特に行動しないという納得の方法だけである。子供はいつか子供を辞めなければならないが、それができないなら子供のまま死んでいくだろう。 心というのが簡単に変えてしまえるものならば世界はもっと平和だろう。心を制御することはそれこそ超人的な精神でもない限り無理な話だ。 人間は幼少から青年期にかけて納得の方法を「試行錯誤」するわけだが、その答えが穿ったものであったとしても、そう覚えてしまえばそれを修正することは困難である。不可能ではないかも知れないが、それこそ雷が落ちるくらいの衝撃でもない限り変わることは無い。 例えば罪を犯し続ける人間というのは大抵それが間違っていると分かっても、心がそれを求め罪を犯してしまうのである。いくら間違った方法であろうが、それを納得の方法であると覚えてしまっているのならば、それを求め続けるのである。できる事といえば代替手段を用いて心を騙すくらいだろう。 ただ納得の方法というのは統一されたものばかりではない。一人で方法が多岐に分かれることもあれば、漠然とした方法しか覚えてない場合もあるだろう。何もしないというのは特に漠然的だ。 しかしそれがどういった条件で覚えるのかなど詳しいことは分からないし、それが本当なのかも私には分からない。私にできることは考えることだけだ。それが私の持った、納得の方法の一つである。 ちなみに私はかなり気性の荒い、気難しい性格をしている上、好奇心が強い人間である。それで問題を起こした後自分を制御しようとするあまり、特に何もしないことも納得としてしまう心を持ってしまった。私の親は基本的に放任主義だ。 あえて言うが、私のあらゆる言動は私自身が原因であり他のあらゆるものは原因となりえない。私という存在は他の誰の責任でもなく、私の責任である。加えて、私は私以外の存在があったからこそこのように存在している。相反しかねない二つの考えだが、分かりやすくいうと私の存在は他者のお陰だけども私の言動は私の責任だという、都合の良い考え方だ。 言ったとおり私はあくまで先人たちの言葉から考えているに過ぎない。 また何度も言っているとおり私はダメな人間であって、別に偉くもなんともない。私の話に説得力を感じなくともそれは当然のことだ。というより、そうでなければならないだろう。 私の考えは根拠のない空想なのだから。 PR
(8の続き)
私も人間ではある。 人間には人間をやめることなどできない。 どう足掻いたとしても、人間なのである。 世界に意味があるかもしれない。 世界に神がいるかもしれない。 世界にあの世があるかもしれない。 世界に私はいないのかもしれない。 だが私は虚無じゃあない。 虚無主義だけで人は歩けないさ。 人はその心のために生きている。 だから虚無の上にも心が必要だ。 人が人をやめることなどできない。 誰も心を蹴り飛ばされたくはない。 人は心を認めなければならないのだ。 そして仮定し続けなければならない。 そうあらゆる人間は自分が可愛い。 それは身体や精神ばかりではない。 立場や環境までも可愛い対象になる。 それらのために人は動いているのだ。 何より自分の心を納得させるために。
(7の続き)
私は運命を信じない。人にとってあらゆるものは必然ではなく、偶然によってなりたっているのだから。少なくとも人間にとって絶対の未来など分からない。 完璧な情報と完璧な計算を行うことができるのならば未来は完璧に予測できるかも知れないが、そこに予測したという情報が欠けてしまえば完璧な予測にはならない。予測を知った情報を加えても、さらにその予測を知った情報を加えて予測し直さなければならない。運命という神の手でも存在しない限りそれらは永久に変化し続け、例え神の手があったとしても一切の未来を統一することなどできない。 それに完璧な情報を得ることも完璧な計算を行うことも人間が行えることではない。だから人にとってあらゆるものは必然ではなく、偶然によって成り立っていると言うのだ。 空想の物語でもよく言われるように、運命は決まったものではなく自ら切り開くものだ。未来は自身の手で創るものであると、そう考える方が人の心にとっても望ましい。 人間において何より重大なのは真実や真理などではない。人間にとって重大なのはその心がより納得できるかどうかだ。 自分は自分や人に動かさせられているのではなく自分自身が動かしているのだから、その自覚を持たなければならない。 人の心は好ましい相手を助けたがる。好ましい人間になれれば人に助けてもらえることも多くなるだろう。人に助けてもらいたくば人を助けよ、人への情けも巡り巡って自らに渡ることすらあろう。 こと社会においては人を動かすものこそが強者であり、あらゆる手を尽くして人々の心を動かせば、それは文化の軍隊にもなりえよう。例え人を動かしたくなくとも、人を動かし動かされることは人間社会において避けられぬことなのだから、その理に逆らうことは不毛である。 心のためにあるのが人間だ。 夢はいつか叶うという定理はありえないが、いつか叶うと信じる方がより尽くすこともできよう。人にとって不可能は可能なことを尽くした後に分かるのだから、何も尽くさずに何が不可能か。 とは言っても明らかな無理は無謀だろう。人が生身だけで宇宙やマグマの海を旅できようか。しかし、世界の原理として不可能でないのならば人に不可能なのかは分からない。 それこそ諦めていいのは無理を知った時と万策を尽くした後だけである。 現状維持は緩やかな堕落である。少なくとも時を維持することはできないだろう。 ならば向上を求めなければならない。目標を決めそのために行動を起こさねばならない。可能な限りを尽くさねばならない。少なくとも、するべきことをしなければならない。 世界を変えてきた人間というものは心の渇きを満たそうと渇望し続けた人間ばかりだ。あらゆるものを省みることなく自らの意思を貫こうとすることは、その意味がどうであれ凄まじいことには変りない。 心を満たして安らかに死ぬことは望ましいかもしれないが、心を満たされる事無く求め続けて死ぬこともまた人の華と呼べよう。植物のように心乱されることもなく果てるも人、花火のように心を燃やし散らせ果てるも人、ただどちらともなく果てるも人だ。 だが人は、生物が死を忘れてはならない。少なくともいまだ生き続ける術はなく、もしそれがあろうとも人は生き続ける者を限るだろうし、限りなく生き続けることもできないだろう。 人には生物としての役割をまっとうする必要が無くとも、生物としての役割があることを忘れてはならない。例えしなくとも、例えできなくとも、その役割があった事を忘れてはならない。未来に生きるものを蔑ろにしてはならない。 未来を思え。見えずともやがて来る。 時を止めることなどできない。 必要な、するべきことを忘れるな。 今の私のようであってはならない。 誰しも人として生きなければならない。
(6の続き)
私に何を望むのか。できそこないの若造は橋を渡ることすらままならない。どうしても美しい花を見たいのならば川を渡ればいいだろう。 彼岸に咲く花は毒々しく赤く血に染められたようだ。空が落ちてくることがあればいっそ楽にもなれる。それでも私に何を望むのか。 神も仏も心を救うが身は持たぬ。身を持つ己が動かねば何も得られることはなく、ただただ時を失うだけである。 また疑いなき信じる心は何も見ることはなく、何かを知ることもない。思慮のない心にもできるのは他者に踊らされることだけだ。 不可能など無く、ただ方法が見えぬだけだ。人にまだ見ぬ方法もあるが、あらゆる方法を考え尽くさねば人の不可能も見えない。 運の良し悪しはただ結果を見たに過ぎぬ。だがあらゆるものを見ようとできれば、良いことを見つけられ、悪いことをあまり見逃さない。 血や周りによって限られる選択でも、ない物をねだるより選んでしまわなければならない。なきものを想おうとも、あるものしか使えないのだから。 それも今見えるものばかりに気を取られてはならない。より知れば使えるものは増え、まるで限られぬ選択を持つこともできよう。 不愉快もまた娯楽である。不幸もまた幸福であり、幸福もまた不幸であるのだから、あらゆるものを楽しみ笑ってしまえばいい。 苦しい時こそ笑ってみせよ。その笑顔がその心も引き上げてくれる。その笑顔は悪魔も修羅をも恐れように。 人の心に背けば、人はその心に背くものだ。あらゆることができようとも人の心に背きすぎては、赤子にできることすらもできない。 例え自分自身であろうともそれらは他の生物によって他の物体で形作られている。それを忘れることなく、その幸福を想うといい。 他者は自分でないのだから、自分に正しかろうと他者に正しい通りはない。いかに似ようとも同じことはありえず、人の正しさは人の正しさだ。 しかし人々によって作られた規律は理性を持って使われている。それらは理性を持って考え、冷静に扱わねばならないのだが。 自分は他者でないのだから、他者に正しかろうと自分に正しい通りはない。いかに自分が納得できようとも他者の考えは他者の心のためにある。 納得を他者に依存してしまえば、他者の心に振り回されるだろう。人は人、自分は自分と人に頼りすぎてはいけない。 血に無いことよりも、知の無いことを知るべきである。こと技術の才など、その大半を意思と知識によって作ることも不可能ではないのだから。 むしろ血が良くとも血を沸き立たせるような意思がないのならば血も腐り、いくら血が良くとも知に欠けてしまえば方法を誤ろうに。 知識がなければあらゆる意思は石のように扱われよう。最悪、良心も与えられず投げられ砕けてそれまでだ。 意思がなければ膨大な知識は紙の重しのように重く動きを鈍らせよう。骨は使われることしかできぬのだから。 血も肉も無ければ骨しか残らない。感情も欲望もなければ動くことのない潔白な屍だよ。 だが無闇に溢れる血は皮を割いてしまうだろうし、目的もなく膨れた肉はさらに求める続けるだけ。健全な血、必要な肉、丈夫な骨こそ必要だ。 ある程度でよしとしなければいつまでも心は渇いたままで、命の水すら飲み干し底も知れない。あるものだけが必要と思えれば、渇きも安い。 安い渇きは何も求めず痩せていくが、底知れぬ渇きは求めて痩せる。水であろうと酒であろうとほどほどがよいだろう。 心こそが人の依り代、人は心の入れ物よ。私が見たとも知ったとも、それでも私は知らぬ存ぜぬ。 これらが嘘かも知らぬ存ぜぬ。信じることはいらぬと説く。悩み迷えと言うのである。 納得できるかできないか。それが人生心の生。納得できぬと言おうとも、納得せねばならぬと言う。 利益にならぬ拒絶など、損を生み出すだけである。それを正す労力と正して得られる納得が、つりあわないなら無理を通すな。 あれだこれだと心労するより、あらゆるものを受け入れようとする。そして、あれだこれだと時間を無駄するよりも、思慮し行動するべきだ。 できぬ私に何を望むのか。
(5の続き)
私は前述したとおり、善悪は左右のようなものだと思っている。その思考は何より世界に定まった意味などないのだというところから来ている。 神がいないとすれば世界の意味はただ人が勝手に決めているだけであり、そんな神はいないと思うからだ。 説明の順序が逆になってしまっているが、だから善悪は左右のようなものだと言ったのである。 世界の原理は研究によって調べることはできるが、世界そのものに意図は無いのである。少なくとも、今現在人が知ることのできる意味はまだ無い。 もし人間が世界の全てを解明したとしても、そこに絶対なる意味があるには神と呼ぶべき存在がいなければならない。それがいなければ世界は無意味であることを証明するだけであり、人間は虚しい意味をつけくわえて納得しようとするだろう。 ただ人間の欲する意味が世界に無いのなら、本当の意味すらもかなぐり捨てようとするだろうが。それが人間というものである。 人はみな自分勝手であると言うが、それはそれぞれの心がそれぞれの方法で納得しようとするためであり、なんら不思議でもないことだ。 だがその心に際限がなければ、死ぬまで渇望し続けて永遠に満たされることはないだろう。人によってはそんな納得できないことをやめさせようともするだろう。 それが人間であり、そうして築かれたのが人間社会というものである。善悪などそのための言葉に過ぎず、正しいと思うことも間違いと思うこともそのための挙動に過ぎない。 神がいなければ世界は無意味であり、その神を知ったものなどいない。ただ人が意味を求め決めているだけであり、人のいう神もそのための言葉でしかないのだ。 顕微鏡で見える世界は仕組みだけだ。そこに絶対の意味はなく、人が意味を思う。もっと言えば人類はそれを仮定し続ける。 だがそれは私がそう思いたいからではなく、私にはそうとしか見えないからである。だから私は、人にとっては心が全てだと言うのだ。 人間にとって意味が無いというのは、何の色も形も音も無いようなもの。触れられることすらしない空虚のようであり、それが世界の姿であるとするならば人はそれを認めないだろう。つまり人がそれを認めないのだから、人にとってそれは間違いなのである。 ならば人にとっての世界の意味とはなんだろうか。私には分からない。それは個々人の心にあるものであり、そして私の心には無い。私がそれを理解することもできないかもしれない。 例えば宗教などは意味を決める方法を一つだが、私はそれらに人間的な意味しか感じ取ることはできない。言ってしまえば空想であり事実とはいいがたいものだが、人はそれを事実であると信じようとすることもなんら不思議とは思わない。人間にはそれが必要となるのだから。 またどんな意味を求めようともかまわないのだろうが、少なくとも冷静であるべきである。例えば規律や人道を無視するような意味は他者から批判されて当然であるのだから、そうした意味を貫こうとしても苦難を伴うばかりだ。それが重大な意味だと思うのであれば貫くこともいいかもしれないが、それが他者に認められるかどうかは別なのだから。あくまで仮定にすぎないのだから。 と言っても、意味を考えつかない人もいるだろう。人生の目的が分からなくなるというのは大抵元々人生の目的を決めていなかったり、一つ二つに限ってそれをなくしたりしてしまったものだろうし、人生について考えることの少ない人がそうした悩みを持つことは当然である。だが、そうした心の迷いにつけこんだ宗教もあるため、心と共に足元をすくわれないように何かしら頼れるものを持っておくべきだ。人でも神でも仏でも。 例え空虚なものであったとしても、根拠のないものであったとしても、それを根拠として生きることはできるのである。誰しも何にも頼ることなく生きられるほど強くはなく、人は何かしらの根拠や意味を必要とするのだから。 ただし心を蝕まれてしまわないように。もちろん無闇に心を蝕むようなことはしないように。 しかし心がいくら必要としようとも世界に意味はない。人が決めているだけである。 人間にとっての意味はありえるが、それは人が勝手に決めるものであり絶対的な意味などありえない。それぞれが勝手に決めてしまうものであって、無理に統一されるべきものでもないだろう。 ただ唯一共通させるべきものを上げるとするならば、心のためにあることを望む。 自らの心だけでなく他者の心のためにも。 人間はそのために生きているのだから。 |
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