20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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あげものとか。
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「我」の強い。「自己意識」などが強いこと。
つまり、自らを自ら足らしめるための意識が強いこと。 それは諸刃の剣である。 大きな力と、そして相応の欠点を持った剣である。 * と言うのも、その「我」が社会的に認められるものであれば、 「我」が強いとか、自己中心的だとかは言われないのである。 「我」が強いといわれるのは社会的に、あるいは常識的に認められないものだ。 しかし社会的に認められようが認められまいが、 「我」の強い人間は相応に「嫌悪」の対象とされうる。 「嫌悪を抱かれるほどの人間」であることは、懸念すべきことばかりではない。 それこそ持っている方向性が酷いものでさえなければ、 「嫌悪を抱かれるほどの行動した人間」である証明とも言えるのだから。 もちろん、下手に我が強ければ角が立つだけだが。 * で、なぜ「我」の強さを擁護するのかと言えば、 「我」が強さというのはイコール意思の強さであって、 それこそ突拍子もない行動も起こせるくらい意思が強ければ、 何事でも影響を与える存在になりうる人間であるということ。 良し悪しは別だが。 反対に言えば、「我」の弱さというのはつまり意思の弱さである。 それは従属しているしていないの話ではなく、 自らが自らであることを望むか望まないかの話である。 従属していようとも「自身は従属することにこそ」という場合、 「我」はむしろ強いといえることすらありうるのだから。 * でもまあ、「我」が強くて反社会的な性質は困り者なのですが、 かといって私のように我の酷く弱い人間は、何もできないのです。 何もできないのです。 * というメモ。
思えば松岡さんはアレだけ熱く語っているものの、
彼の世界レベルにおける最高記録はベスト8なんですよ。 諦めちゃダメだと語っている彼でも、無理だったことはあるわけです。 それでも諦めんなと言うのは、そうした表層的なことではなく、 それこそ哲学として持っているんだと思います。 まあ一個人としてではなく、繋がっていく中の一人として という考え方もありますけど。 * 人間、限界なんて死ぬまで分からないものです。 分からないのに分かったふりをすることほど滑稽なことはない。 * 意識の上に「努力」という文字はいらない。 すべきことは「行動」である。たゆまない行動である。
二次創作の自由さが極めて広い東方においては特に
キャラクターが俳優のようなものとなっている。 キャラクターとしてある程度の「役」は決まっているものの、 その「役」もほとんど目安であり、絶対なものではない。 役の名前はキャラと同じであれども、演じる役柄は大抵異なるが、 しかしキャラを目当てに見る人は少なくない。 本来持っている役柄を切り捨てているようなものでも、だ。 分かりやすく言えば、「人気女優」なのである。 * キャラクターを俳優として考えることは、そう新しい話ではない。 複数作品のキャラを使ったパロディなどは、キャラを俳優として扱っている代表例である。 例えば「スマブラ」は様々なゲームのキャラクターを集めて格闘させるゲームというものだが、与えられている要素は「そのゲームでの役柄」や「そのゲームの世界」であって、本来のキャラとも本来の世界とも言えない。そういった最低限のキャラクターとしての役柄を引き継ぎつつ、別のゲームに出るというセルフパロディなども、ところによっては良くある。 ただ極端な話、「あらゆる作品の登場人物は役者」とも言えるのである。 少し狭くすれば「原作以外のあらゆる作品では役者」にもなる。 もちろん俳優の持ち味を引き出せる役を作れるかどうかは作り手次第だ。 * ちなみにニコニコでのMUGENストーリー動画においては「キャラ=俳優」という図式が分かりやすく現れている。 元々の設定をかなぐり捨てたようなキャラ付けをするストーリーもあるからだ。もちろん、元々の設定を可能な限り維持したり、あるいは最低限辻褄合わせの部分だけ設定を変えたりするといったこともある。 ただし、そこにいるのはあくまでも「俳優」であって「本人」ではない。 そう考えるべきである。 * とかなんとかのメモ
私は画風の定着に意欲的でない。
画風の定着とは、特定の画風を描き続けられるようにすること。 私は、特定の画風で描き続けることに意欲的でない。 勿論私らしい描き方はあるものの、 その描き方自体を意図的に行うことはない。 そうなった時はあくまで、そうなってしまっただけである。 * 昔から「画風うんぬん」の話を聞いてきたのだが、 それは「基本があってこそ」のものではないかと思ったからだ。 基本的な「見る・描く」ができることが、前提ではないかと。 「基本」ができなければ「画風の定着」はただの「癖」である。 分かりやすく言えば、女の子しか描かないから女の子しか描けない状態。 基本があるならば、そうした状態でも多少の練習でどうにかできるだろうが、 基本がなければ、そうした状態から脱するのに苦労する。 なまじ描けてしまう分描けるものしか描かなければ 「描けない」という感覚を嫌いやすくなり、 余計描けるものしか描こうとしなくなりうる。 極端な話、ごく限られたものしか描けなくなるかもしれないというのだ。 * だが、かといって画風の考慮を行わないのは、不安定なだけである。 最近ペンを持つとき、怖いことがある。 それは、画風の考慮をしていないからかもしれない。 |
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