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20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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 分かってる。
 正確、間違っていない言葉よりも、心を動かす言葉の方が正しいと想われることを。

 人間に必要なのは、ただ正確な情報じゃない。
 人間の、その心を動かす情報。

 正確な情報から、人を動かす言葉を考える。
 どうすればその正確な情報へと動いていくれるか。

   *

 例えば、運命は自分で切り開くものだ、っていう言葉。
 運命は変わらない、と思うよりも、そっちの方がやる気も出るでしょう?
 正確か、間違っているかは別にして、少なくとも前者の方が人のためになる、
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 「才能を、意識と言いかえて、そう思いなさい。
  才能が無いのは、意識が無いだけだと、思いなさい。
  才能が悪いのは、意識の仕方が悪いと思いなさい。

  才能なんて考えられるような、生半可な意識の仕方をしているのでしょう?
  そして、そんな生半可な意識では、できないのでしょう?」


>続・絵を描く上での意識
 http://andil.blog.shinobi.jp/Entry/22/

  想う
 「どんな絵が好きなのかい?
  どんな物が好きなのかい?
  どんな人が好きなのかい?

  どんな形が好きなのかい?
  どんな色が好きなのかい?
  どんな線が好きなのかい?

  どんな表現が好きなのかい?
  どんな構図が好きなのかい?
  どんな効果が好きなのかい?

  どんな絵を描きたいのかい?
  どんな物を描きたいのかい?
  どんな人を描きたいのかい?

  何を描きたいのかい?
  どう描きたいのかい?
  どう描くのかい?」

  描く
 「思い通りの線も描けないのに、思い通りの絵を描けるはずがない。

  思い通りの線が描けないのに、思い通りの形は描けるはずがない。
  思い通りの線や色が描けないのに、思い通りの質感は描けるはずがない。

  思い通りに描けるようになるまで、描かなきゃ。
  思い通りの形が描けるまで、描かなきゃ。
  思い通りの質感が描けるまで、描かなきゃ。

  もっともっともっと、沢山描かなきゃ。
  思い通りに描けるようになるまで描かなきゃ。
  描けないんだったら、もっと描かなきゃ。

  もっとよく見て、もっとよく想って、もっとよく描かなきゃ。
  もっともっともっと、沢山描かなきゃ。」

   見る
 「どこを見てる?
  ものを見ない、キャンバスを見ない、線を見ない、色を見ない。
  そんなんで、絵が描けるの?
  そんなんで、描きたいものが見えるの?
  そんなんで、思い通りの線が描けるの?

  絵を見てる? 人を見てる? 自分を見てる? 自分の絵を見てる?
  線を見てる? 色を見てる? 形を見てる? 質を見てる? 紙を見てる?
  ちゃんと見てる? 本当に見てる? しっかり見てる? よく見てる?

  何にも見ないで、目をつぶったようなままで、絵が描ける?
  どんな風に描いているのか見てる? どんな風に描いたか見てる?

  ちゃんと見ないと、本当に見ないと、しっかり見ないと、よく見ないと。
  絵を見て、人を見て、物を見て、自分を見て、自分の絵を見て。
  線を見て、色を見て、形を見て、質を見て、光を見て、影を見て。

  見ないと、何にも描けない。
  ちゃんと見れば、描けないわけがない。」

 インターネット上に情報が流れ出したら、それを回収しきることは困難だ。
 特に法的な拘束の弱いもの、あるいは拡散・伝播されやすいものは、不可能と言っていい。

 もし、それらを消去する為には、インターネットそのものを閉鎖させなければならず、閉鎖した場合にはとてつもない損害が出ることも想像に難くない。
 できるのは、法的な措置だけだ。


 回収しきることが困難というのは、何より、どこへ言ったのかを正確に把握できないこと。
 その所在を掴みきれないことだ。

 流れ出してしまえば、どこに残るかも分からない、どこにあるかも分からない。
 たとえ、目立つところにあるものを絶ったとしても、それ以外の場所にいくらでも存在しうる。
 それが、インターネットだ。

 しらみつぶしに絶っていっても、どこからともなく流れ出る。

   *

 インターネットの、素晴らしいところはそれが発生してしまう環境であることだ。

 図書館は本があり、その本は存在する数だけしか一度に読めない。
 3冊、本があったなら3人までしか借りることができない。

 インターネットは情報を複製して発信させる為、限界は機材(ハードなど)の限界でしかない。

 例えるなら光速でチラシを印刷して配っているような状態であり、一度に何人も読むことができる。
 複製されたチラシは、またそこから複製してくことも可能だし、複製する場所を増やすことも可能だ。
 情報を共有する上では、とてつもなく優れているものなのだ。

 それに情報を保存し発信する場所、サーバーは世界の一箇所にまとめる必要がなく、世界中に散らばっている。

 一箇所に大量の本を集めた場合、その一箇所でとてつもない維持費を必要とすることになるだろう。
 かといって、複数箇所に散らばっている場合、全ての本を探す為には、移動して回るしかない。
 だがインターネットは一箇所に存在しなくとも、インターネットにつながったパソコンの前に座ったまま、様々な場所に存在する情報をその場に持ってくることができるのだ。
 一昔前は、そこまで膨大な量を詰めこめず、また回線の速度も遅かったが、今は違う。

 しかしながら勿論、ほぼ無限大に発信することをできてしまうことは、デメリットも存在する。
 全世界に発信したくない事を、全世界へと発信してしまいうるからだ。
 拡散させたくない情報が、勝手に拡散されてしまう。
 そして回収が困難でほぼ不可能とも言えること。

 それは、インターネットを使う上で、肝に銘じておかなければならない。

   *

 と言っても、気をつけるべきは相手が人間であること、不特定多数たりえることくらいです。
 それらを気をつければ無闇に個人情報だとかを流したりはしないでしょうし・・・。

 特にインターネットがいくら仮想空間であったとしても、それらを築いてきたのは人間であり、その場の営みというものは人間が作り出したものである。
 インターネットにいるのは機械でもなんでもなく、人間そのものだということを忘れてはいけません。
 それも一般人とも言えるような人々も多いことを。

 そして、それが、人間であることを忘れてはいけません。
 試しにやらせてみればいい、なんて言って、とりかえしのつかないことになったらどうする。
 まして、何か大きな集合体のトップであるにも関わらず、試しに、なんてやっていいのか。

 例えば、その集合の[主権]を他の集合へと譲渡された場合、どうする。
 その主権を取り戻すことは困難を極めるだろう。そして、それができるのが、集合体のトップだ。

 絶対に、試しに、なんて軽い気持ちでやってはいけない。
 トップを決めるにも、軽い気持ち、片耳で聞いたような情報だけで判断してはいけない。
 自らの手で、目で、耳で、調べ、自らの頭で考えなければいけない。
 見る 行う 考える
 目を使う 体を使う 頭を使う。

 その三要素はなんにおいても重要だ。
 観察やそれによる学習。
 練習などを含めた行動。
 想像などから思案まで。

 結局はその三つで説明できてしまう。
 そして、その三つのうちどれも欠いてはいけない。


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