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20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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 ちょっと考えてみる。
 まず『身体感覚の意識』は不可欠だ。

 体を思い通りに動かす為の感覚、またその為の意識。
 人間慣れていなければ、思い通りの動作をすることは困難だ。
 なので、思い通りに体を動かせるよう、体を動かすという感覚への意識。

 それを身につけるには、何より体を意識しながら体を動かす事。
 どこに力を入れ、どう動いているのか、どこの力が抜け、どう動くのか。
 使われる言い方をすれば、「筋肉を意識したトレーニング」などだ。

 ストレッチからウェイトトレーニングまで、そうした身体、筋肉を刺激する運動。
 また実践的な練習をする運動、そしてその為に必要なものは何かと思う意識。
 少なくとも体をどう動かすのか分かっていなければ怪我もしかねない。

 まずは、体を伸ばしたりしながら、体の感覚へ意識を集中させていくこと。
 運動の際は、どう動くのかを確りと意識しながら動くこと。
 精密な動作を求められる場合は、その辺りの反復練習を欠かさないこと。

 もちろん、「観察・練習・思案」どれも欠かないよう気をつけること。

   *

 ちなみに私の言う絵を描くの三原則「見る・描く・想う」も、即ち「観察・練習・思案」だ。
 良い割合としては3:5:2くらい、練習を多めにとらないといけないと思う。
 思うだけ。

   *

 運動をする人間としてやっちゃいけないのが、体の感覚への意識を欠くこと。
 おぼろげな意識だけで体を動かしていれば、まず怪我をしかねない。
 それも突然訪れる事故ばかりでなく、体の動作の無理で怪我をすることもありうる。
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 正式な病ではなく、五月病のようなものです。

 私は毎月20日前後、割と前後しますが、その辺りになると気分が落ちます。
 いわば躁鬱病の鬱の状態が、20日前後にあるような。ブルーデーみたいな。

 気分が落ち込む時は5日辺りでも落ち込みますが、20日前後は沼地です。
 プラシーボ、思い込みを懸念して神経張り巡らせて警戒してるわけでもなく、気分が沈んでいて気づいたら20日前後だった、みたいな。

 まあ、毎月なってるのか記憶があいまいなので、元気でいようと頑張ります。
 気分が落ち込む、と言うより関係ないことへ行動が向かうとか、そういう辺りだし。
 落ち込んでる感じですが。

   *

 ちなみに、その辺りになると妙に文字を書きたくなるようです。
 つまり、絵から離れる形。まあ、絵を描いてないわけではないですが。

 想像の意識が沈み、言語の意識が強くなってる、みたいな。
 うぬぅ。

   *

 まあ、そこそこ頑張ります。
 今週のバクマン。をみて思ったことがある。

   *

 私は『見る・描く・想う』の三点を基準に何が不足しているのかなどを考える。

 例えば、建築写生や静物デッサンは見る部分がかなり大きい。
 そればかりでなく、実際の風景を現す絵は、見る部分が重要だ。
 もちろん描く技術がなくては描けないが。

 イラストなどは、何かしらのモチーフ、モデルを表現する場合、想う部分が大きい。
 見ること、描くことを欠いては無理だが、想う部分を欠いてもつまらないものになる。
 自分がどんな風に描きたいのか、どう描きたいのか、それが分からなければ難しい。

 また物語を表現する場合、想うという部分はさらに大きくなる。
 どんな表現をしたいのか、またどんな物語を描きたいのか、どう表現しどう描くのか。
 それらの想像や思慮が足りなければ、そうそう面白くはなりがたい。
 まず、自分自身が楽しいと思えるのかどうか、に加え面白いと思わせられるか。
 そうした、表現の部分は、想うことが何より重要となる。

 表現を実現させる為には、思い通りに描けること、思い通りに描けているか見ることも大切だが。

   *

 私は、どれも欠けているといえば欠けているが、どうすればいいかの指針をつけるとすれば、
  「もっと多くの絵やものを見て、何がいいかを見つけるよう想い、より多く描くこと。」

 私は、良いもの、の中で優劣をつけられない。
 また、何がいいのか、パッと浮かんでこない。
 その為描く絵が面白みにも欠けてしまう。

 でも、私オンリーな言葉じゃないんだけどね。
 とりあえず、そうした意識をして、「絵へと向かう意識」を引き出すこと。


 今は、文字書いてるけどさ。
意識がうっすら、うすうすらー
  ニコニコの話。

 泣ける洋楽の動画で「歌詞が分からないのに泣けるとかw」みたいなコメントを見たが、音楽は音がメインだ。
 例えば、底抜けに明るい歌で哀しい歌詞でも、その歌詞を知らなければ明るい歌だと錯覚する。
(例としてあげるなら、海外で小林オニキスさん作詞作曲の初音ミクの曲[サイハテ]を、パーティーソングだと思い込んだコメントがあった。同曲は死別、弔いの歌であり、少なくとも楽しいパーティーで流すのは、はばかられる。)
 また一切歌詞の無い、楽器による音楽であっても、涙を誘う音楽はあるし、その「歌詞ありき」のコメントはどうかと思った。

 また「声」という楽器を含め、純粋に音楽としてのみの音楽を聞けるのは、知らない言語の歌である。
 もちろん、歌詞の素晴らしい音楽があることも知っているが、歌詞があっても歌詞の文字は音楽の根幹でない。
 言葉自体の意味を知らずとも、言葉という音の生み出すリズムや情状は心を動かされる。
 もちろん、前記における誤解もありうるが、何も分からなければいけないわけではない。

 魂で聞けだとか、心で聞けだとかなんとかでなく、結局音を聞くだけである。
 ちなみに、声という楽器のかもし出す情状というのも、音でしかない。

 
 例として紹介したサイハテ
ポップな曲調であるが、よく聞けば哀しさを感じる。

 *

聞いてて涙が出てくる音楽。

 以下、他愛も無い話。

 ゆっくりしていってね、というのをいわば「許し」と表現したコメントがあった。
 そして、そんな急ぎすぎないでいいんだよ、みたいな。

 でも思うが、ゆっくりしていってね、というのは、「とまっていってね」ではない。
 あくまで「ゆっくり」していくこと、気楽さ、落ち着きなどを持つことであって、ただの停止、停滞ではない。
 そうした反対の考え方をすれば、「ゆっくりでもいいから、しなきゃいけないことはやろうね」とも取れる。

 あれだ。
 「ゆっくりしすぎた結果がこれだよ!」という状態にならないよう、気をつけるくらいはしなきゃ、って話だ。 


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