20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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先日の本を買うとき、整然と並べられた本たちを見て思った。
私がいくら頑張っても、この本たちのように群集になってまぎれてしまうのだろうか、と。 でも、私はこう思わなければいけない。 そこに並べるくらいにならないといけない。 そして、私自身を超えなければいけない。 とか。 * 勉強は芋虫の歩みです。 進んでるけど、時速2ミリとかそのくらい。 PR 私には、二人の兄が居る。出来の悪い弟だ。 母が私たち三兄弟を例えて、 長兄は一般的な社会人、次兄は芸術に近しい社会的な分野の方面だ。 ただ、本当に私ができるものと言えば、そうした芸術系そのものの分野くらいなんだろうなあとは思う。 正直こうして文字を打っている時のほうが、絵を描いている時よりも集中できている。その点では才能としてどちらが才能の長けたものかといえば、絵よりも文章になるんだと思う。
私は、無意識ながら対人に神経をすり減らす気質だ。
人と接することに慣れても居ない為、人と接しているととても疲れる。 例えば知り合いと遊ぶにしても、疲労しすぎて寝込む事すらある。 今も、久しぶりに公民館のような所(小学生から高校生が集まって遊べる施設)へ行ってきた後だからか、頭が重い。 毎日のように行っていれば、疲れ方も違うのだが、慣れていないとやはり疲れる。 まずい性質なのだが。 * ちなみに、インターネットであっても割りと同様である。 人と接する、という形の時間が限りなく少ない為、慣れていれば疲れも何も感じない。 ただ慣れないところへ書き込んだりすると、精神的に疲れることもある。 不特定多数の訪問者がいると分かる場合は特に。 でも慣れてしまえば、疲れ方も明確に違う為、慣れてしまえばこっちのもの。 ただ慣れてしまうと暴走しがちな人間な為、慣れすぎるのも考えものなのだが。 * 意識、の概念を用いて、これらを分析する。 まず私は見知らぬ人などと接する機会が殆ど無く、対人における[対応の仕方の意識]が薄いのだろう。 その為、[その意識を構築する為の無意識的な意識]が働きっぱなしになり、神経的な疲労感を感じるのだと。 またインターネットの場合、初めてのところへ書き込む時などは、軽い興奮状態になる。 それは前記の意識に含め、脅威、恐怖に対して脳がアドレナリンなどを分泌しているような状態じゃないかと思う。 つまり、そうした事へ恐怖を感じる意識があり、そうした状態になるほど、いわゆる[ノミの心臓]みたいな神経の細さ、もしくは過敏すぎる察知の意識があると言えるだろう。 だが、私はそうしたものを単純な弱さと思わないようにしている。 結局は些細な事に対しても意識があるというだけであり、ただの不利ではない、と。 またそうした繊細さがあるからこそ、私は寛容でなければならないと自覚できるのだとも思う。 そして、そうした繊細さこそ、私の孤立した思考を維持するに相応しい意識なのだとも。 で、慣れて暴走をしてしまうのは、無神経な状態に入る為。 それが危険でないと分かった場合、心を許して、意識しない状態に入るわけです。 どちらかというと、私が危険である為、良い状態とはいえないんですが。
最果ての闇が煌々と海を蝕み、右手の揺らめきが踊りとなる
冴えて光の轟々が木も葉も凍らして、左手の過ちが夕暮れとなる。 されど輝く夕闇にその両手が温かさをこじ開けた。 |
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