20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 ニコニコの話。 泣ける洋楽の動画で「歌詞が分からないのに泣けるとかw」みたいなコメントを見たが、音楽は音がメインだ。 例えば、底抜けに明るい歌で哀しい歌詞でも、その歌詞を知らなければ明るい歌だと錯覚する。 (例としてあげるなら、海外で小林オニキスさん作詞作曲の初音ミクの曲[サイハテ]を、パーティーソングだと思い込んだコメントがあった。同曲は死別、弔いの歌であり、少なくとも楽しいパーティーで流すのは、はばかられる。) また一切歌詞の無い、楽器による音楽であっても、涙を誘う音楽はあるし、その「歌詞ありき」のコメントはどうかと思った。 また「声」という楽器を含め、純粋に音楽としてのみの音楽を聞けるのは、知らない言語の歌である。 もちろん、歌詞の素晴らしい音楽があることも知っているが、歌詞があっても歌詞の文字は音楽の根幹でない。 言葉自体の意味を知らずとも、言葉という音の生み出すリズムや情状は心を動かされる。 もちろん、前記における誤解もありうるが、何も分からなければいけないわけではない。 魂で聞けだとか、心で聞けだとかなんとかでなく、結局音を聞くだけである。 ちなみに、声という楽器のかもし出す情状というのも、音でしかない。 例として紹介したサイハテ ポップな曲調であるが、よく聞けば哀しさを感じる。 * 聞いてて涙が出てくる音楽。
以下、他愛も無い話。 ゆっくりしていってね、というのをいわば「許し」と表現したコメントがあった。 そして、そんな急ぎすぎないでいいんだよ、みたいな。 でも思うが、ゆっくりしていってね、というのは、「とまっていってね」ではない。 あくまで「ゆっくり」していくこと、気楽さ、落ち着きなどを持つことであって、ただの停止、停滞ではない。 そうした反対の考え方をすれば、「ゆっくりでもいいから、しなきゃいけないことはやろうね」とも取れる。 あれだ。 「ゆっくりしすぎた結果がこれだよ!」という状態にならないよう、気をつけるくらいはしなきゃ、って話だ。 PR |
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