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20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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 病などによって体調が悪い場合、意識も薄まりやすい。
 意識によって物事を行う際、十分な濃さの意識ができず、失敗をしてしまう事も多い。

 今日は、腹痛で久しく訪ねてきた知り合いの遊びに付き合えなかった。

   *

 スポーツで天才と呼ばれるような人は、病であっても十分な意識を持っていることがある。
 むしろ、無意識を引き出しているだけで、意識は薄くても問題は軽いんじゃないかとも思える。

 代表例は、2006年フィギュアスケートのプルシェンコ選手。
 ある時、39度の熱がありながら、華麗な演技を成し遂げていた。
 本当に熱があったのかと怪しいくらいです。

 細かいところまで意識を持っているのではなく、無意識にできるよう体へ刻みこんでいるのではないだろうか。 
 まあ、分からないけど。

   *

 素人、は大抵、意識が備わっていない。
 意識が備わっていないから、上手くできない。

 絵において、私が重要だと思っている意識は[見る][描く][想う]を引き出すこと。
 [見る]は様々な絵や物を見ることでイメージの意識を持つことや、描いている絵がこれで良いかどうかを見る意識。
  これが備わっていないと、なぜ駄目であるのか分からなかったり、描くもののイメージが湧かなかったりする。
 [描く]はただ描こうとする意識ではなく、正確な描画をする為の意識、思い通りに描くための意識。
  最中というより、練習の段階で必要な意識で、あとは慣れの無意識を引き出す程度、かもしれないけど。
 [想う]は第一に意識をするという意味、あと描くもののイメージをする意識や描くことのイメージの意識、考える意識。
  いくら見れたり、描けたりしても、描くものをイメージしたり、デザインしたりできなければ、つまらないものになる。
 私が、そう思っているだけですが。
 プロなどは、その意識を経験によって意識せずとも意識している状態にあると、私は思っている。

 下手な人に対して常々言いたくなる言葉は「物や絵を見ないで描けるのか?(見る)」「満足に線も描けないで思い通りに描けるのか?(描く)」「何をどう描こうとしているのか?(想う)」とかなんとか。自分にも言い聞かせる言葉なんですが。

 私も特に、色をキチンと見てきていない為、そのイメージが無く、変に薄い色を使ってしまう。
 だが、その上で不足しているのは[色を描くこと]で、その為の不足は[色を見ること]と、簡単な話にできる。
 何が欠如しているのか、明確だ。

 そうやって、[見る][描く][想う]は原因を簡潔にできる。
 またそれらが大切だと想う前に、大切だと想っていたことは[ぐらうす-にーざ:http://gurous.niza.nobody.jp]の[絵講座]に描いてある。[見る描く想う]の意識の、前身のようなものだ。
 何を意識すべきなのかを、描いているだけだが。

 絵講座と言えば、大抵描き方、技術ばかりをのべていく。それで、見る事描く事などを促しているのだろう。
 それは、それでいいと思う。 が、欠如してしまいやすくないかは、不安に思う。
 それに技術に関して、私がどうこう言えるわけもない為、他の所で技術は見てもらうとして、大切だと想うことを描いた。


 まあ、正直言えば、私はこんな文章を書く意識、そして時間をもっと絵に向けるべきだとは想う。

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 最果ての闇が煌々と海を蝕み、右手の揺らめきが踊りとなる
 冴えて光の轟々が木も葉も凍らして、左手の過ちが夕暮れとなる。

 されど輝く夕闇にその両手が温かさをこじ開けた。
 私の好き嫌いの観念は薄い。
 あるのは「嫌いではない」と「好きではない」のおおよそ。

 正直、嫌いという感覚や、好きという感覚が分からない。
 好きである、嫌いである、という感覚が分からない。

 だが、好き嫌いを多く持つことはとても生き辛いのだろうと思う。
 何かを嫌ったり、あるいは何かの一つを好きになったりして、それ以外を嫌ったり。
 正直、嫌うということは争いの種だ。

 そうした許容の見かたもある。

   *

 一般的な人はもしかしたら、好きである、嫌いである、それらを口に発することで、自己暗示に掛かっているのではないだろうかと、思ってしまう。
 そして、発された言葉を受け取った他人の反応によって、より暗示が濃くなっているのではないだろうか、と。
 つまる所、好きだと思い込んでいるだけではないのだろうか、と。

 だが、思い込みというものは武器になるのも分かる。
 太古から、人間は思い込みを持って生きてきた。
 信仰という思い込みを。

 私は自分に思い込んでいないか、と疑心を持っているのだろうか。
 疑心が思い込みを阻み、思い込んでしまいにくい状態となっているのだろうか。
 よく分からない。

 私は疑心と許容を信仰しています。
 疑うことをしなければいけない。また受け入れることをしなければいけない。
 そんな風に考えています。

 昔、疑うことが大事なんて思って疑心暗鬼に駆られて、その果てにあったのが許容です。

 自分の感情を疑い、本当にそう思っていいのかを考えなければ、感情に振り回されるだけ。
 相手が嫌なやつだったとしても、それを受け入れてやれるくらいの寛容さを持つべきだ。


 争いは、許容しない者、認めない、許さない、受け入れない者がいるからこそ起こります。
 そうした者が考え直す為には、何より自身を疑わなければ、変わりようがありません。
 もし、普遍的な正義がありうるとするのであれば、それは許すことに他ならない。
 絶対に許さない、それが正義であることは絶対にありえない、とすら思います。
 許さないことが、悪を定義づけているわけですから。

 法律も、犯罪を許さない為にありますが、もう一つ人間を許すためにあります。罪を憎んで人を憎まず、と言いますか。
 だからといって、犯罪をしていいわけはありません。ルールを認めないことは駄目です。
 もっと言えば、許されないことほど、恐ろしいことはない。まあ最低限、道徳的なもの、倫理的なものは守らなければいけません。
 自由を認めるということは、相応の許容を持たなければならない、という事です。制限にも許容は必要ですが。
 例えば、ある部屋ではいくら騒いでもいいとすれば、その中にいる場合その騒がしさを許容しなければなりませんし、ある部屋では静かにしなければならないとすれば、その中にる場合静かでいることを許容しなければなりません。


 疑心には、疑心へ対する疑心も必要です。
 本当にこれであるべきなのか? と疑った時、 本当にこれであるべきなのか、と疑っていいのか? などとちゃんと考える事。規則とかでも、本当にこの規則でいいのか? に本当にこの規則でいいのかと考えていいのか? から本当にこの規則でいいのかと考えていいのかと考えていいのか? などと考え、キチンとした考えを行うこと。
 人間は本当に生きていていいのか? と考えた場合、本当にそう考えていいのか? と考え、キチンと両方の考え方を成すこと。
 勿論、考えるときも、その考えが飛躍しすぎていないかを疑うこと。疑って疑って疑いぬくこと。


 そして、私は人間に対する疑心の先に、許容を見つけました。

 私は意識という概念を使います。
 意識、と言いましても、日常的に使われる意識よりも広義になる意識。
 簡単に説明すれば、感覚器官や脳から感じる全ての感覚を示して、私は意識と言います。
 もっと簡単に説明すれば「感じている範囲全てが意識」です。また「行動」もそこに含まれます。

 私は脳に人間の意識、また無意識の全てが入っているとして、魂という概念を信じてはいません。
 脳の細胞その他の配列、動作が人間の感覚の全てである、と。

 もし、あなたが文字を読んでいるとするのなら、あなたは文字を読む意識を持っていることになります。
 そして、私が今文字を打っている、書いているのは、文章を書く、という意識を持っているからです。
 ですが、意識と一言に言っても、その質はピンキリで、向かっている意識が薄いと、心ここにあらず、という感じになったり、集中している場合、意識は集束して目的のものだけを感じます。
 また例えば、ブラインドタッチのできる人は大抵、文字を打つという無意識的な動作を、軽い意識で引き出しているに過ぎませんが、キーボードの配置を見ながら次の文字を打つにはどうすればいいのか、という意識をしながら文章を書いていきます。
 前者を示して、「キーボードの配置への意識(記憶)があり、見ないでもキーボードで文字を打てる意識(動作)」ができる、という風な使い方をします。

 プロフェッショナルと呼ばれるような人々は、意識に優れた人々だと思います。
 人よりもはるかに濃く、鋭く、正確に意識をできる人が、天才などとも言われる人だと思っています。
 そうした人は何より「意識をするための意識」を行っているのではないだろうか、などとも考えています。

 私の例をあげますと、こうして文字を打っている間の意識は、文章を考える事だけに絞られています。
 ですが、絵を描く時は、意識が別のものに移ってしまいやすく、頭では別のことを考えながら、絵を描いているなんていうことすらあります。勿論、それで良い絵が描けるはずも無く。
 そういった意識のしやすさの差異は才能の一部である、と考えています。
 私の場合、文字を打つことに対して無意識にも意識を集中させられる才能を持ち、絵では意識を強く持たなければ意識を集中しきれない程度の才能だけである、などと。

 私の言う意識はとても広い範囲の意味を持っていますが、代用できるものを私は知らないので、意識という言葉を使っております。

 意識をするための意識、意識を制御する意識を持つことは、より優れた意識をするために大切です。



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