20090306から 日常メモ用とか ■日常に思ったことを、メモしていきます。 ■疑心と許容を信仰しています。 ■正しい保障なんて無い。 ■正確さより、人の心を動かすものがあるのも知っています。 ■あと、空想旅行、深夜便.夢旅行とかなんとか。
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例えば「運命は変えられない」と「運命は自分で切り開くもの」とで、どちらが人の心を動かすか。 人々に支持されるものとは、正確なものでなく、人の心を動かしたものが支持されるのだ。
その限界の高さを才能と呼ぶこともできるが、少なくとも何もせずに分かるほど限界は明確でない。 意識もせずに何かできるほど、世界は甘くない。 * あとがき PR
私は、成功者などのたぐいの人間では無い。おちこぼれとも言っていいだろう。
まず中学校への登校日数は両手で足りる程度しか行っていない。 またその為、高校へは行けず、経歴上中卒である。 即ち、学のある人間は無い。 次に、何かしらの行動を起こしているわけではない。 まあこうしたブログやらなんやらを作っているのも行動かもしれないが、私生活の一部でしかない。 つまり、社会での生活が、ほとんどない。 だから、私の言葉は、社会上の根拠も無い。 だから、私には疑ってもらう理由、疑われなければならない理由がある。 残念ながら、私は立派な人間では無い。
生物はいつか死ぬ。人間も、いつか死ぬ。
また、道具であっても、やがてその役目を終える。 もし、成し遂げたいことがあるのであれば、それの為だけの意識を持つべきだ。 人間の時間は限られ、死んだあと後悔することはできないだから。 「死を想え。 そして、生きていることを知れ。」 「人間であるならば、心の為に人生を全うせよ。」 * と、自分に言いたいわけだわさ。
「自分そのものを認めることができれば、世界の全てを認めることができる。
過去も、何もかも全てが、現在の自分を作り出した要因なのだから、と。 もし過去から悪いと思うことを抜き出した自分がいたとしても、それは自分ではない。 そう、その悪い事が起こったからこそ、自分そのものである。 何一つ、欠けていてはいけない。 そう思って、失敗すらも未来の糧にし、生きていくべきなのだ。」 * 再掲載 「もし、あなたが世界を許せない、許さないのなら、 世界があなたを許すこともないでしょう。」
「私は、私の言葉の実現者ではない。
加えて、私は成功者であるはずもない。 よって私の言葉に、社会的な根拠などない。」 |
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